スポンサーサイト

カテゴリー: スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-- -- | トラックバック(-) | コメント(-)


歴史に残る強力打線 12

カテゴリー: オリックス・バファローズ

三期の黄金時代を迎えた阪急強力打線

長池徳二

 1936年に創立された、大阪阪急野球協会(阪急職業野球団)を前身とする老舗球団である。阪神急行電鉄(現在、阪急電鉄)がオーナーで、企業名を球団名に入れた最初の球団であった。
2リーグ分裂後の1950年代から60年代半ばまで、Bクラスに低迷していたが、1963年コーチより監督に昇格する西本幸雄が、創設以来の最下位を経験するもチームを育て、1967年からは長池徳士、ダリル・スペンサー、米田哲也、足立光宏らが活躍し、69年までリーグ3連覇を果たし、第一期黄金時代を築くことになる。

  第一期黄金時代(1967~69年)

1 大熊忠義     レフト
2 坂本敏三     ショート
3 長池徳士     ライト
4 D.スペンサー  ファースト
5 G.ウィンディ   センター
6 森本潔       サード
7 山口富士雄    セカンド
8 岡村浩二     キャッチャー

 これまでの来日外人の中には、3冠王のブーマー・ウェルズランディ・バース王貞治に並ぶシーズン本塁打最多記録55本のタフィ・ローズアレックス・カブレラや通算打率(4000打数以上)では、日本プロ野球歴代1位の3割2分の成績を残しているレロン・リーなど、打撃成績だけを見ればスペンサーより優れた選手は何人もいる。
 しかし、スペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、技術・パワー・走塁など全てが桁外れで、日本の野球を変えたともいえる。
スパイクを蹴り上げるなど、危険な走塁を何度か試み、野村克也などはスペンサーがホームに突っ込んでくると、最初からへっぴり腰だったという。 闘争心をむき出しにした喧嘩野球と言われたものだ。
 
 スペンサーの他に、67年入団2年目の長池は27本塁打と頭角を現し、69年にはホームランと打点王の2冠に輝き、MVPも受賞している。通産ホームラン・打点王共各3回、パリーグを代表する強打者に成長した。
 スタメン野手の中に、自分と同じ立教大学出身者が3人いる。岡村浩二森本潔、山口富士雄であるが、森本と山口は中退である。ちなみに、西本監督も立教大学出身者である。
森本は、第二期黄金時代には、5番に定着するが、V9監督の川上哲治をして「何を考えているかわからない」と、不動の4番長池以上に恐れられた。

 投手陣は、本格派のエース米田を中心に、左の梶本隆夫、アンダースローの足立(足立は68・69年は肩の故障で戦力にはなっていない)、技巧派石井茂雄と、バラエティに富んだ四天王であった。

  第二期黄金時代(1971・72年)

1 福本豊       センター
2 大熊忠義     レフト
3 加藤英司     ファースト
4 長池徳士     ライト
5 森本潔       サード
6 坂本敏三     ショート
7 山口富士雄    セカンド
8 岡村浩二     キャッチャー

 1968年のドラフト会議は、史上空前の大豊作年であったことで知られている。阪急が指名した選手の中からは山田久志、加藤秀司、福本豊の3人の名球会選手を輩出している。
1位指名の山田は3年目の1971年から頭角を現し、以降球界を代表するピッチャーの一人として活躍。1976年から1978年にかけては、巨人のONでさえもなしえなかった3年連続MVPを獲得し、1988年の引退までに通算284勝を記録した。2位指名の加藤は1982年に広島へ移籍するまで、不動の3番として阪急打線を支えた。また、7位指名の福本は、入団2年目から打撃が開花し、1番打者として定着。その俊足を生かして、1970年から13年連続で盗塁王のタイトルを獲得、1984年には当時ルー・ブロックが持っていた通算盗塁記録を更新し「世界の盗塁王」とまで称された。

 67年からパリーグ3連覇のあと、70年に4位に甘んじた阪急は、トップに福本が定着、4番長池を中心に、3番加籐と5番に昇格した曲者森本で、不動のクリーンアップを築き、71・72年のリーグを制した。
 しかし、セ・リーグにおいては巨人が同じく黄金時代を迎えており、日本シリーズに勝利を収めることは出来なかった。特に1971年の日本シリーズ第三戦は語り草となっている。1勝1敗で迎えたこの試合は阪急優位で進んでおり、9回表が終わって、1-0とリードしていた。しかし9回裏、そこまで無失点に抑えていたエース山田が調子の上がらない王に逆転サヨナラ3点本塁打を浴びてチームは敗北し、これに勢いを得た巨人がこの試合から3連勝して、1勝4敗と敗退したのである。
 結局、名将西本監督は、V9巨人と5度対戦して1度も勝利を収められず、大毎1回と近鉄2回のリーグ優勝を併せても、日本一の栄冠を手にすることはなかった。

  第三期黄金時代(1975~78年)

1 福本豊       センター
2 簑田浩二     レフト
3 加藤英司     ファースト
4 B.マルカーノ   セカンド
5 高井保弘     DH
6 島谷金二     サード   (75・76年は森本)
7 B.ウィリアムス  ライト
8 大橋穣       ショート
9 中沢伸二      キャッチャー  

 阪急は、どんなに強くても人気がなかった。投手では、金田正一の400勝に次ぐ350勝の大投手米田や3年連続MVPの山田、同じく名球界入りした左腕エース梶本、速球王山口高志。打者では、野村、大杉と常にホームランと打点を争った長距離砲の長池、世界の盗塁王福本や打撃の職人加藤など、そうそうたる顔触れにもかかわらず、人気がなかったのは、不思議であった。
 強くても人気が出ない阪急が勝つとパリーグ人気の低下にも繋がるとして、パリーグは1973年から前・後期制によるプレーオフを導入した。
 
 阪急は73年、後期シーズン1位も、前期1位の南海にプレーオフで敗れ、リーグ優勝は叶わなかった。
 西本監督に代わって1974年より監督に就任した上田利治は初年度こそ2位と優勝は叶わなかったものの、1975年は優勝し、1976年、1978年には前後期ともに1位という完全優勝を達成するなど、1978年までリーグ4連覇を果たした。
 また、日本シリーズにおいても1975年に広島を下して悲願の日本一を達成、以後1977年まで3年連続日本一となっている。この時期、チームは山口、山田、加藤、福本、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムスら球史に残る名選手を擁しており、圧倒的な強さから「王者ブレーブス」と呼ばれた。

 第三期黄金時代の特徴は、固定された強力な打撃陣だけではなく、福本、簑田浩二、ウィリアムスの鉄壁な強肩外野トリオやマルカーノ、大橋穣(東映より坂本と交換トレード)の強肩二遊間をはじめ、加藤、島谷金二(中日より森本と交換トレード)のゴールデン内野陣であった。

 しかし、4年連続日本一が懸かった1978年の日本シリーズ第7戦において、対戦相手であるヤクルトスワローズの主砲大杉勝男が放ったレフトポール際の際どい飛球を富沢審判員はホームランと判定し、上田は放棄試合も辞さない態度を示して1時間19分の猛抗議を行った。判定は覆らず、上田はこの長時間抗議の責任を取って辞任した。

 リーグ5連覇がかかった1979年のシーズンは上田監督の辞任に伴い、梶本が監督に昇格して指揮をとり、エース山田が21勝5セーブ、主砲加藤が打率.364 本塁打35 打点104の成績を残すもプレーオフに敗退し、5連覇はならなかった。
 阪急としてはその後、1984年にリーグ優勝をしているが、球団としてこれが最後のリーグ優勝であった。しかし、日本シリーズでは3勝4敗で、広島に惜敗している。 
 1989年、球団譲渡に伴いチーム名をオリックス・ブレーブスに改称、1991年からは、オリックス・ブルーウェーブとなり、2005年近鉄を統合して、オリックス・バッファローズとなった。
Fri 2009 | トラックバック(-) | comment(7)


前ページ | | 次ページ

blueswave

URL | [ 編集 ] 2009/06/16(火) 14:38:18

素晴しい記事です。あのころをなつかしく思い出します。私の阪急ファン歴は50年以上、小学校の5年生のころから始まっています。既に米田、梶本の時代が始まっていました。あの選手たちはすごかったです。そのころは弱小チームでしたが、そんななかで20勝を超える成績で、しかも打撃でも何本も本塁打を打っていました。捕手は山下健。主な野手では岡本健一郎、バルボン、人見、河野旭輝、滝田、戸倉、古川、岸上・・・。数年後からは本屋敷、衆樹、中田など若い力も出てきましたが、なかなか強いチームにはなりきれず、強くなってきたのはスペンサー、ウィンディなどが入団してからでしたね。西本監督の功績が大きかったと思います。

kurimasa

URL | [ 編集 ] 2009/06/16(火) 23:27:06


それにしても音楽だけでなく、プロ野球でもこんなに話が合うとは、本当に嬉しいです。
自分は、立教大学出身で、本屋敷も西本監督も先輩に当たります。
特に西本さんは、監督として一番尊敬しています。
過去ブログにも書きましたが、1950年2リーグ分裂後、3球団を優勝させた監督は、西本さんだけですからね。
日本一には、一度もなれませんでしたが、短期決戦は、勢い・運・不運に作用されるものだと思っています。
大毎は別として、阪急と近鉄という弱小球団を優勝争いできるチームに持っていった手腕には脱帽です。

blueswave

URL | [ 編集 ] 2009/06/30(火) 15:14:57

ごぶさたしてしまい申し訳ありません。和製ポップスの方はクリマサさんの独壇場といった感じで、ちょっと着いていけなくなりました。
このころの阪急の強さはやはりすごいですね。ひとりひとりの個性があるし、チームとしてのつながりやまとまりもありました。まさに今のオリックスとは雲泥の差、ですね。
第1期でいえば私はウィンディ(入団当初はウィンドホーンと呼ばれていました。ウィンディーは登録名ですね)が好きでした。足を大きく広げた打撃フォームが力強くてかっこよかったです。トップバッターを打つことが多く、ウィンディー、阪本、スぺンサー、長池・・・とつづく打線は今考えてもほれぼれします。山口、森本、住友らは「チビッコ軍団」などといわれたように体格は小柄ながらガッチリタイプで、職人タイプでしたね。ほんと、よい時代でした。

kurimasa

URL | [ 編集 ] 2009/06/30(火) 18:56:16

すべてのGS紹介が終わったら、大学以降の洋楽を書きますので、また、よろしくお願いします。

自分は、この頃から野球を見始めました。本当に半球は魅力的な強さがありました。ウィンディーは、トップも打ちましたが、5番も打ちましたよね。その時のトップは大熊でした。森本は勝負強い6番でしたし、仰るように各人が自分の役割をこなしていました。
自分は、代打男の矢野も好きでした。
日本シリーズでのアナウンサーの言葉が忘れられません。「代打、矢野です。確立で言えば、15打数1安打の矢野、しかしその1安打がホームラン、その1安打に賭ける西本監督」
投手陣は、米田、足立、梶本、石井茂男というバラエティに富んだ四天王。当時は、中継ぎ・押えなどの分担制はなく、先発がすべてでしたからね。

blueswave

URL | [ 編集 ] 2009/06/30(火) 22:07:03

矢野清・・・この選手は強烈な印象があります。とにかくなかなか鳴かず飛ばずだったのがいきなり打撃開眼したかのように打ちはじめましたね。肩をすぼめるような小さなフォームからグイーンと大きなスイングをし、高々とボールを飛ばす、あの魅力は素晴しいものでした。投手では石井茂雄。はじめのうちは中継ぎで出始め、出ては打たれ出ては打たれ・・・。それでも使い続けた結果堂々たるエースに成長しました。あんなに打たれながらも、負けながらも、使われて、とうとう一流になった投手を他には私は知りません。

kurimasa

URL | [ 編集 ] 2009/07/02(木) 00:10:01

後の阪急には、代打ホームラン記録を持つ高井やこれまた長打力がある河村(両者とも捕手出身)や代走のスペシャリスト・平林、ホームランを掴み取り、大リーグの殿堂入りまでした外野守備の山森、ユーテリティープレーヤーで、何処を守っても一級品の守備を見せた本西など、魅力ある選手が多かったですね。

石井茂雄もそうですが、昭和43年花のドラフト1位組、山田もそうでした。西本監督が、「山田は、将来のうちのエース」と言って、開幕3連戦から、打たれても打たれても彼を使い続けました。
他チームで印象的なのは、長島巨人の新浦です。

-

| [ 編集 ] 2016/01/06(水) 15:09:45

このコメントは管理者の承認待ちです











管理者にだけ表示を許可する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。