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球史に残る強力打線 11

カテゴリー: オリックス・バファローズ

オリックス ブルーサンダー打線

ブーマー・ウェルズ


 1988年、日本野球連盟の創設メンバーでもあった老舗球団の阪急ブレーブスが、オリエントリース(現オリックス)に譲渡されオリックス・ブレーブスとなった。同時期に、大阪を本拠地とした南海ホークスもダイエーに身売りし福岡へ移転することとなった。これに際し、当時南海の4番打者であった門田博光が関西への残留を希望し、阪急に引き続き兵庫県西宮市を本拠地とするオリックスに移籍することとなった。ブレーブスのチームカラーのブルーと重ね合わせ「ブルーサンダー打線」と名付けられた。
 オリックス・ブレーブスの名称は、89年と90年のみで、91年から2004年までオリックス・ブルーウェーブ、2005年に近鉄と合併し、現在のオリックス・バッファローズとなっている。
 
 移籍してきた門田は南海での最後の年となった1988年、40歳ながら44本塁打、125打点を挙げ2冠を獲得、打率も.311であった。新球団のオリックスには、主軸のブーマー・ウェルズ、石嶺和彦、前年20本塁打と成長著しい藤井康雄、3割打者の常連で2桁本塁打が期待できる史上最強のスィッチヒッター松永浩美もおり、その他は、職人芸の福良淳一、本西厚博、小川博文、強肩キャッチャー中嶋聡で、打線は構成された。

  1989年第一次ブルーサンダー打線

1 松永浩美   サード
2 福良淳一   セカンド
3 ブーマー.W  ファースト
4 門田博光   DH
5 石嶺和彦   レフト
6 藤井康雄   ライト
7 本西厚博   センター
8 中嶋聡     キャッチャー
9 小川博文   ショート

打線の特徴は、前年本塁打王である門田の加入により、3~6番に、右・左・右・左と、本塁打を期待できる打者を交互に並べることができた点にある。また、これに伴い、前年までクリーンアップの3番を担うことの多かった松永が1番に座り、その打率の高さを生かすことができた。7番センター以外は、ほぼ固定のオーダーであった。7番センターには守備力の高い本西厚博が多く出場したが、熊野輝光、南牟礼豊蔵、山森雅文が起用されることもあった。熊野は1985~87年にレギュラーとして活躍した選手であり、山森はアメリカ野球殿堂に顕彰されるほど守備力に秀でた選手であった。
 
 ブーマーは、1984年に外国人初の三冠王の栄冠に輝いているが、この年の活躍も目覚ましく、打率・打点の2冠王を獲得している。阪急~オリックスに9年、最後の1年はダイエーで10年間日本球界に在籍したが、3割を切った年は、2年しかない。
 .389の国内最高打率を残すなど、派手さでは、阪神のランディ・バースに及ばないが、在籍年数(ブーマー10年、バースは6年)からいっても、タイトル取得回数からいっても(バースの3冠王以外に、ホームラン王1回と首位打者1回に対し、ブーマーは、同じく3冠王以外に、首位打者1回と打点王を3回獲得)、まさに史上最強の助っ人と言えよう。

 ブーマーと門田を中心にした打線の活躍は、1989年のペナントレースをまれに見る激しい争いとなる一因とした。チームは開幕8連勝でスタートするなど、打線の好調さもあって開幕から首位を走り続けた。しかし、8月に9勝16敗と大きく負け越し、近鉄・西武との三つ巴の激しい争いとなり、最終的にはオリックスは72勝55敗3分、勝率.567であり、71勝54敗5分、勝率.568の近鉄にゲーム差0で2位に終わった。

1995年第二次ブルーサンダー打線

 門田とブーマーはそれぞれ1991年と1992年に福岡ダイエーホークスへ、また松永と石嶺がそれぞれ1993年と1994年に阪神タイガースへ移籍したため、第一期ブルーサンダー打線は、一旦中断するが、1995・96年とリーグ連覇、96年は19年ぶり4回目の日本一となり、ブルーサンダー打線が復活した。

1 イチロー   センター
2 田口壮    レフト
3 D・J      ファースト
4 T.ニール   D・H
5 藤井康雄   ライト
6 小川博文   セカンド
7 馬場敏史   サード
8 中嶋聡    キャッチャー
9 勝呂壽統   ショート

 上記が標準的なメンバーであるが、オリックス監督就任2年目の仰木彬は、「日替わりオーダー」と呼ばれる、固定メンバーによらない方針をとり、打線が毎試合のように変わった。  二塁には福良、左翼には高橋智(この場合は田口壮が中堅、イチローが右翼を守った)、捕手には高田誠、三輪隆らも起用された。4番打者としてニールが活躍したが、ニールの不調時にはD・J、藤井、高橋が代わりに4番を打った。相手投手が左の場合、小川博文が4番を打ったこともあった。また、シーズン終盤に1番で不振だったイチローを3番にしたりもした。

 イチローは、入団3年目の1994年に、日本記録となる年間210安打を放ち、この年から3年連続MVP、7年連続首位打者、5年連続最多安打と大ブレイクしている。今や世界のイチローである。
彼を育てたのは、仰木監督と新井打撃コーチであることは、周知である。
 1995年は、主にトップを打ったが、翌年途中以降は3番に定着し、2000年には4番に座った。

 1996年も日替わり打線であったが、近鉄から移籍してきた大島公一が、ほぼ2番に入り、イチローが3番に定着したため、トップは田口、4番ニール、5番藤井と共に固定された。曲者小川は、大島の加入により、セカンドから本職のショートに戻り、主に7番を打った。

 仰木は西鉄時代、三原マジックと騒がれた故三原修監督の教え子であったが、選手を固定せず、その日調子の良い者、あるいは相手投手との相性などから選手起用し、打順も変えた。使われた選手は、監督の期待に応え、そんなことから仰木マジック(三原の再来)などと呼ばれたものだ。常に紳士的で、ダンディな知将であった。近鉄とオリックスの2球団を優勝させたが、西本幸男(大毎、阪急、近鉄の3チームを優勝)、上田利治(西本のあとを受けて阪急を優勝)、大沢親分(日ハムを優勝)、鶴岡一人(南海の黄金時代を築く)などと同じ、典型的なパリーグ一筋の監督であった。
Thu 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


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