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強力打線総括

カテゴリー: 野球全般

強力打線のネーミング

巨人史上最強打線

 球史に残る各チームの強力打線を述べてきたが、そのネーミングについて4タイプに分類される。

1.チーム名やチームカラーにちなんで命名されたもの
 ”中日・強竜打線”、”ダイエー・ダイホークス打線”、”オリックス・ブルーサンダー打線”、”広島・赤ヘル打線”、”近鉄・いてまえ打線”
 特定の時期や、特定の布陣を指しているのではなく、チームが勢いに乗り、打線が爆発した時に使われる名称である。阪神と近鉄の愛称となっている”猛虎打線”と”猛牛打線”は、猛打爆発した時 に使われる。いてまえも、近鉄の代名詞になっている。.
 小粒だが、チーム名から”ロッテ・マリンガン打線”もあった。また、愛称ということから、横浜の監督になった山下大輔の名前を取って”大ちゃんス打線”というのもあった。

2.世の中の流れ、時代の象徴として命名されたもの
 ”日本ハム・ビッグバン打線”、”巨人・ミレニアム打線”
 ビッグバンは、日本で1996年から2001年度にかけて行われた大規模な金融制度改革を指すが、元々宇宙創造時にあったといわれる大爆発になぞらえて名付けられた。
 ミレニアムは、千年紀にあたる2000年に巨人が大型トレードで他チームの主力を揃え、20世紀最後の覇者を目指したことから名付けられた。

3.その時の布陣による打線の特徴を表して命名されたもの
 ”南海・400フィート打線”、”西鉄・流線型打線”、”横浜・マシンガン打線”、”西武・ノーリミット打線”
 打線の組み方に明確な指針がある場合で、長距離砲が集まった年には、一発攻勢。あるいは、ホームランを狙わず、繋ぎの打線に徹するといった場合に名付けられる。
 それゆえ、その特徴自体が打線からなくなってしまえば、ネーミングも一緒に消えてしまう。
 その打線に似たタイプの打線が他チーム生まれた場合には、他球団でも同じくそう呼ばれる事がある。流線型打線は、1リーグ時代の巨人でも使われた。繋がるマシンガンに対し、単発的な打線は” ピストル打線”と呼ばれ、貧打の代名詞になっている。

4.打線の破壊力を表す固定した布陣に命名されたもの
 ”阪神・ダイナマイト打線”、”松竹・水爆打線”、”毎日・大毎・ロッテのミサイル打線”、”大洋メガトン打線” 
 長距離砲が、揃った年の固定メンバーで固定されるため、その選手が引退やトレードされると自動消滅する。しかし、また違う年に異なるメンバーで復活もする。その際は、第2次○○打線とか、ニュー○○打線と呼ばれるが、系統だったチームの伝統として残る。
 ダイナマイト~ミサイル~水爆と、その破壊力に比例して凄まじいといえると思う。松竹が短命で消滅したのは、非常に残念である。
 何しろ1リーグ分裂後の初代セリーグ覇者であり、同リーグには巨人も阪神もあったのに、両チームを制しての初代栄冠を手にしたのである。

 現在の12球団の中で、ヤクルトと楽天だけは、命名された強力打線がない。楽天は、歴史が浅いので致し方ないが、ヤクルトは、サンケイ、国鉄と遡っても見当たらない。

 わずかにヤクルトには、2003年、”オジンガン打線”と呼ばれた打線があった。
当時の日本人スタメン打者は、38歳の6番古田敦也を筆頭に、2番宮本慎也と5番鈴木健が33歳、7番真中満が32歳、トップの稲葉篤紀が31歳、一番若い8番城石憲之でも30歳であった。残り2人は外人で、3番T.ベッツも30歳、4番のA.ラミレスだけが唯一20代であったが、彼も29歳だった。

 当時若手の岩村明憲が怪我で戦線離脱し、やむなく組んだ打線の日本人選手全員が30代の「おじさん」選手であった。しかし、この年のチームの順位は巨人と並んで3位タイであり、チーム打率は首位の阪神に次ぐ.283という高打率をマークし、年齢を感じさせない働きを見せた。

 各時代において、数々の強力打線が命名されたが、先に述べた1950年の松竹・水爆打線と1985年阪神のニューダイナマイト打線が、特筆されると思う。クリーンアップトリオの3人が、ホームラン30本以上、100打点以上と、2つの記録をもって優勝したのは、この2チームしかない。この時のクリーンアップこそ、最強の布陣と考える。
 
 下位打線の意外な1発も面白いが、やはり野球はチームの総合力であり、各人がそれぞれの役割をこなすことにあると思う。V9巨人の項で述べたように、塁上の走者を返すのはONの仕事、他の選手はいかにして塁出るかという各人の役割が徹底していた。
 最近の大型補強で、各チームの4番打者を揃えても、必ずしも優勝をしていない。現に”史上最強打線”(これはネーミングではない)と謳われ、日本記録のチーム本塁打数259本を記録した2004年も、3位に沈んでいる。
やはり、巨人らしさを出したV9時代の方が、圧倒的に強かった。

 200発以上本塁打が出たチームでも、必ずしもそのチームが優勝した訳ではない。近鉄は、1980年と85年、2001年と3回も記録しているが、85年は優勝を逃している。日本初の1978年広島、2001年ダイエー、2004年巨人も同様で、200発打線で優勝したのは、1980年・2001年の近鉄と2000年の巨人しかないのである。

 やはり、爆発力も脅威であるが、V9時代の巨人や黄金時代の南海・西鉄・阪急・西武の圧倒的な強さが印象に残る。単年や2年連続ぐらいの優勝は、どのチームも経験しているが、数年に渡る連覇を記録しているのは、この5チームだけである。
 打線だけではなく、投手の陣容と内外野の守備も揃わないと中々優勝は出来ない。連覇を続けるには、チーム方針そのものが問われることになる。
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Tue 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


歴史に残る強力打線 13

カテゴリー: 読売ジャイアンツ

巨人ミレニアム打線と史上最強打線

清原和博

 ミレニアム打線 

 ミレニアム打線とは、2000年の年がミレニアム(千年紀)であることにちなんで命名された、巨人の打線の名称である。命名者は、当時ジャイアンツの監督で、現在は同球団の終身名誉監督である長島茂雄
 
 2000年の巨人は、前年まで当時のワーストタイ記録である3シーズン連続V逸中で、優勝が絶対の命題とされていた。松井秀喜は前年まで主に3番打者で活躍し4番をシーズン通して務めたことが無かったが、契約更改記者会見にて2000年からは自分が4番を打ちたいと発表した。球団は打線のさらなるテコ入れのため、高橋由伸清原和博に加え、西武を自由契約になっていたドミンゴ・マルティネスの加入と、故障で出場機会を失っていた広澤克実石井浩郎を放出し、守備に難があるものの長打力に加え走力もある江藤智を広島からFAで獲得した。
 前年までV逸のA級戦犯扱いされていた清原は心身共に肉体改造を行いマルティネスとのレギュラー争いに備えた。なおこの年は、FAでダイエー、工藤公康、阪神を自由契約になったダレル・メイ、トレードでロッテから河本育之を獲得するなど投手陣の補強も積極的に行ったため、他球団ファンからの批判も起こった。

 これまでも巨人は、落合博満(元ロッテ~中日)、広澤(元ヤクルト)、石井(元近鉄)など、移籍前のチームで4番を打ってきた選手ばかりを集めている。4番打者ばかり並べても、必ずしも優勝していない。大味な野球が多く、生え抜きの若手選手が育っていない。どういう野球を目指しているのか分らなかったし、他チームの寄せ集めで、伝統的チームカラーが見えなかった。
このことは、他チームファンの批判だけでなく、昔からの巨人ファンも快しとはしなかったと思う。

 しかし、豪華な布陣であることは否めない。シーズンに入ると打線は期待通りの破壊力を見せ、チーム本塁打は球団初の200本を超え(最終的には203本)、4年振りのリーグ優勝を9月24日に東京ドーム本拠地最終戦で決めた。
 対中日27回戦の9回裏、江藤の満塁本塁打(チーム200号)と二岡智宏のサヨナラホームランで、一気に5点を中日の守護神エディ・ギャラードから奪って派手に優勝を決めた。
 ダイエーとの日本シリーズでは、最初で最後となったON対決を制し、6年振りの日本一を達成した。松井は全試合4番打者で出場を果たして、本塁打王・打点王の2冠を獲得し、リーグMVPと日本シリーズMVPにも輝く活躍ぶりだった。巨人は20世紀最後の覇者となり、文字通り千年紀を飾るシーズンとなった。
 
   2000年ミレニアム打線

1 仁志敏久           セカンド    20本塁打
2 清水隆行           レフト      11本塁打
3 高橋由伸           ライト      27本塁打
4 松井秀喜           センター    42本塁打
5 D.マルティネス(前半)   ファースト   17本塁打   後半は清原和博  16本塁打
6 江藤智             サード     31本塁打
7 二岡智宏           ショート    10本塁打
8 村田真一           キャッチャー  7本塁打

 ファーストのみ、シーズン前半がマルティネス、後半清原が併用されたが、キャッチャーの村田真一以外、全員2桁ホーマーを放っている。キャッチャーも村田善則が先発で使われたこともあり、彼が3本塁打なので、投手を除く全ポジションで、2桁本塁打を記録したことになる。これは、1980年の近鉄以来の記録となる。(総ホームラン数は、近鉄の方が上)
 高橋も4番を打ったことがあり、松井、マルティネス、清原、江藤と5人の4番経験者が、スタメンに名前を並べている。

 代打陣には、「巨人・命」と言ってはばからなかった左の後藤孝志とチャンスに滅法強かった右の曲者元木大介がいた。後藤は、ファーストとレフト、元木は、サード・ショート・レフトで先発出場したこともあった。

 史上最強打線

 2003年の巨人は、前年限りでニューヨーク・ヤンキースに移籍した松井の穴埋めが出来なかったことや、投手陣の崩壊によって連覇を逃したため、監督の原辰徳が任期を1年残して辞任する事態に至った。
 苦戦を強いられた巨人は、近鉄を自由契約になっていたタフィ・ローズを獲得。またダイエーから、その年のオープン戦に膝に重度の故障を負った小久保裕紀が無償トレード扱いで移籍。
 この結果またもや、これまでに巨人に移籍していた清原、江藤、ロベルト・ペタジーニと合わせて、かつて他球団で4番を打った打者5人が巨人に集まることになった(清原以外の4人は本塁打王のタイトルを獲得している)。
 一方で生え抜きの選手にも高橋以外に、阿部慎之助、仁志敏久、斉藤宜之、清水隆行、二岡智宏と打力のある選手が多く、また本拠地の東京ドームは本塁打が出やすい構造のため、シーズン前から1980年に近鉄バファローズが作ったシーズンチーム本塁打記録(239本)の更新の期待が大きかった。

 結果的に、チーム本塁打は近鉄の記録を更新し(最終的には259本)、打点(719)、長打率(.483)、出塁率(.339)もセ・リーグ1位と、史上最強打線の名に違わぬ成績を残した。 しかし前年に続く投手陣崩壊が災いしチームの順位は3位に終わった。

   2003年史上最強打線  シーズン本塁打数日本記録を樹立

1 仁志敏久    セカンド  28本塁打
2 清水隆行    レフト    16本塁打
3 T.ローズ    センター  45本塁打
4 高橋由伸    ライト    30本塁打
5 R.ペタジーニ  ファースト 29本塁打
6 小久保裕紀   サード   41本塁打
7 阿部慎之助   キャッチャー 33本塁打
8 二岡智宏     ショート   9本塁打

 小久保はこの年右打者で41本塁打を放ち、球団初となる「右打者での40本塁打」を達成した(当時の12球団中12番目と、最も遅い達成)。それまでの最高は1968年の長島の39本塁打だった。
近鉄の239本を抜くとなるチーム本塁打数記録更新240本目を放ったのは、黒田哲史である。
 5番打者はペタジーニと清原の併用だった(ペタジーニの故障により開幕スタメンは清原)。後半戦は小久保が4番に座ったため高橋由が5番を打った。清原は40試合の出場にとどまったものの12本の本塁打を放っている。
 「チーム連続試合本塁打」の記録で33試合連続のセ・リーグ記録を達成し、日本記録の35試合連続(西武が1986年に記録)に迫った。また、「開幕からのチーム連続試合本塁打」については、開幕から33試合連続の日本記録を達成した。

 V9時代の巨人打線

 川上哲治率いる巨人は、日本一9連覇を果たし、それこそ史上最強のチームであった。ONを中心に、前後を高田繁、土井正三 、柴田勲、黒江透修などのうるさい脇役陣で固めたほぼ不動のオーダーであった。ONが偉大すぎたため、後を打つ5番打者が中々育たず、その頃も他チームから大物選手を引き抜いたが、高倉照幸(西鉄)も町田行彦(国鉄)や桑田武 (大洋)も短命で期待に応えられなかった。結局、V9(1965~73年)前半は柴田、国松彰、後半は末次利光などが5番を勤めた。
 1969年、西鉄から移籍してきた柳田真宏は、V9の後半に代打で活躍していたが、1977年に大ブレイクして、長島監督をして「巨人史上最強の5番打者」と言わしめている。

    V9時代最も多かった打順

1 高田繁    レフト
2 土井正三   セカンド
3 王貞治    ファースト
4 長島茂雄   サード
5 柴田勲    センター
6 末次利光   ライト
7 森昌彦    キャッチャー
8 黒江透修   ショート

 巨人の日本一V9は、1965年パリーグの覇者南海を破ってから始まるが、最後の73年の相手も南海であった。その間、1970年のロッテを除き、残り5回はすべて西本・阪急であった。

 当時の巨人は繋ぎの打線で、各人が役割を心得、塁に出ることに全力を尽くした。上位・下位ともしつこく出塁し、ホームに返すのがONの役割であった。また、攻撃陣だけでなく、内外野の守備も鉄壁であった。投手も城之内邦雄、金田正一、中村稔、堀内恒夫、高橋一美など、常に絶対的エースを抱えていた。
セリーグ5球団も、パリーグの覇者も全く歯が立たなかった。

 とにかく、ONの働きは目覚しい。V9時代の記録だけでも、王は9年すべてホームラン王。打点も長島が3回で、王が6回。首位打者も長島が2回で王が4回。打撃3部門を二人でほぼ独占している。王は、V9最後の1973年に最初の三冠王を手にしている。(翌年も三冠王で、2年連続)
 ちなみに、首位打者部門だけは、3回ONの受賞が阻止された。打撃タイトルのON独占を阻止したのは、9年間で、1965年の江藤慎一(中日)、67年の中暁生(中日)、72年の若松勉(ヤクルト)の3人だけである。

 まさにV9時代は、ONの全盛期であり、巨人軍は二人に引っ張られての最強軍団だったと言えよう。
Mon 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


歴史に残る強力打線 12

カテゴリー: オリックス・バファローズ

三期の黄金時代を迎えた阪急強力打線

長池徳二

 1936年に創立された、大阪阪急野球協会(阪急職業野球団)を前身とする老舗球団である。阪神急行電鉄(現在、阪急電鉄)がオーナーで、企業名を球団名に入れた最初の球団であった。
2リーグ分裂後の1950年代から60年代半ばまで、Bクラスに低迷していたが、1963年コーチより監督に昇格する西本幸雄が、創設以来の最下位を経験するもチームを育て、1967年からは長池徳士、ダリル・スペンサー、米田哲也、足立光宏らが活躍し、69年までリーグ3連覇を果たし、第一期黄金時代を築くことになる。

  第一期黄金時代(1967~69年)

1 大熊忠義     レフト
2 坂本敏三     ショート
3 長池徳士     ライト
4 D.スペンサー  ファースト
5 G.ウィンディ   センター
6 森本潔       サード
7 山口富士雄    セカンド
8 岡村浩二     キャッチャー

 これまでの来日外人の中には、3冠王のブーマー・ウェルズランディ・バース王貞治に並ぶシーズン本塁打最多記録55本のタフィ・ローズアレックス・カブレラや通算打率(4000打数以上)では、日本プロ野球歴代1位の3割2分の成績を残しているレロン・リーなど、打撃成績だけを見ればスペンサーより優れた選手は何人もいる。
 しかし、スペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、技術・パワー・走塁など全てが桁外れで、日本の野球を変えたともいえる。
スパイクを蹴り上げるなど、危険な走塁を何度か試み、野村克也などはスペンサーがホームに突っ込んでくると、最初からへっぴり腰だったという。 闘争心をむき出しにした喧嘩野球と言われたものだ。
 
 スペンサーの他に、67年入団2年目の長池は27本塁打と頭角を現し、69年にはホームランと打点王の2冠に輝き、MVPも受賞している。通産ホームラン・打点王共各3回、パリーグを代表する強打者に成長した。
 スタメン野手の中に、自分と同じ立教大学出身者が3人いる。岡村浩二森本潔、山口富士雄であるが、森本と山口は中退である。ちなみに、西本監督も立教大学出身者である。
森本は、第二期黄金時代には、5番に定着するが、V9監督の川上哲治をして「何を考えているかわからない」と、不動の4番長池以上に恐れられた。

 投手陣は、本格派のエース米田を中心に、左の梶本隆夫、アンダースローの足立(足立は68・69年は肩の故障で戦力にはなっていない)、技巧派石井茂雄と、バラエティに富んだ四天王であった。

  第二期黄金時代(1971・72年)

1 福本豊       センター
2 大熊忠義     レフト
3 加藤英司     ファースト
4 長池徳士     ライト
5 森本潔       サード
6 坂本敏三     ショート
7 山口富士雄    セカンド
8 岡村浩二     キャッチャー

 1968年のドラフト会議は、史上空前の大豊作年であったことで知られている。阪急が指名した選手の中からは山田久志、加藤秀司、福本豊の3人の名球会選手を輩出している。
1位指名の山田は3年目の1971年から頭角を現し、以降球界を代表するピッチャーの一人として活躍。1976年から1978年にかけては、巨人のONでさえもなしえなかった3年連続MVPを獲得し、1988年の引退までに通算284勝を記録した。2位指名の加藤は1982年に広島へ移籍するまで、不動の3番として阪急打線を支えた。また、7位指名の福本は、入団2年目から打撃が開花し、1番打者として定着。その俊足を生かして、1970年から13年連続で盗塁王のタイトルを獲得、1984年には当時ルー・ブロックが持っていた通算盗塁記録を更新し「世界の盗塁王」とまで称された。

 67年からパリーグ3連覇のあと、70年に4位に甘んじた阪急は、トップに福本が定着、4番長池を中心に、3番加籐と5番に昇格した曲者森本で、不動のクリーンアップを築き、71・72年のリーグを制した。
 しかし、セ・リーグにおいては巨人が同じく黄金時代を迎えており、日本シリーズに勝利を収めることは出来なかった。特に1971年の日本シリーズ第三戦は語り草となっている。1勝1敗で迎えたこの試合は阪急優位で進んでおり、9回表が終わって、1-0とリードしていた。しかし9回裏、そこまで無失点に抑えていたエース山田が調子の上がらない王に逆転サヨナラ3点本塁打を浴びてチームは敗北し、これに勢いを得た巨人がこの試合から3連勝して、1勝4敗と敗退したのである。
 結局、名将西本監督は、V9巨人と5度対戦して1度も勝利を収められず、大毎1回と近鉄2回のリーグ優勝を併せても、日本一の栄冠を手にすることはなかった。

  第三期黄金時代(1975~78年)

1 福本豊       センター
2 簑田浩二     レフト
3 加藤英司     ファースト
4 B.マルカーノ   セカンド
5 高井保弘     DH
6 島谷金二     サード   (75・76年は森本)
7 B.ウィリアムス  ライト
8 大橋穣       ショート
9 中沢伸二      キャッチャー  

 阪急は、どんなに強くても人気がなかった。投手では、金田正一の400勝に次ぐ350勝の大投手米田や3年連続MVPの山田、同じく名球界入りした左腕エース梶本、速球王山口高志。打者では、野村、大杉と常にホームランと打点を争った長距離砲の長池、世界の盗塁王福本や打撃の職人加藤など、そうそうたる顔触れにもかかわらず、人気がなかったのは、不思議であった。
 強くても人気が出ない阪急が勝つとパリーグ人気の低下にも繋がるとして、パリーグは1973年から前・後期制によるプレーオフを導入した。
 
 阪急は73年、後期シーズン1位も、前期1位の南海にプレーオフで敗れ、リーグ優勝は叶わなかった。
 西本監督に代わって1974年より監督に就任した上田利治は初年度こそ2位と優勝は叶わなかったものの、1975年は優勝し、1976年、1978年には前後期ともに1位という完全優勝を達成するなど、1978年までリーグ4連覇を果たした。
 また、日本シリーズにおいても1975年に広島を下して悲願の日本一を達成、以後1977年まで3年連続日本一となっている。この時期、チームは山口、山田、加藤、福本、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムスら球史に残る名選手を擁しており、圧倒的な強さから「王者ブレーブス」と呼ばれた。

 第三期黄金時代の特徴は、固定された強力な打撃陣だけではなく、福本、簑田浩二、ウィリアムスの鉄壁な強肩外野トリオやマルカーノ、大橋穣(東映より坂本と交換トレード)の強肩二遊間をはじめ、加藤、島谷金二(中日より森本と交換トレード)のゴールデン内野陣であった。

 しかし、4年連続日本一が懸かった1978年の日本シリーズ第7戦において、対戦相手であるヤクルトスワローズの主砲大杉勝男が放ったレフトポール際の際どい飛球を富沢審判員はホームランと判定し、上田は放棄試合も辞さない態度を示して1時間19分の猛抗議を行った。判定は覆らず、上田はこの長時間抗議の責任を取って辞任した。

 リーグ5連覇がかかった1979年のシーズンは上田監督の辞任に伴い、梶本が監督に昇格して指揮をとり、エース山田が21勝5セーブ、主砲加藤が打率.364 本塁打35 打点104の成績を残すもプレーオフに敗退し、5連覇はならなかった。
 阪急としてはその後、1984年にリーグ優勝をしているが、球団としてこれが最後のリーグ優勝であった。しかし、日本シリーズでは3勝4敗で、広島に惜敗している。 
 1989年、球団譲渡に伴いチーム名をオリックス・ブレーブスに改称、1991年からは、オリックス・ブルーウェーブとなり、2005年近鉄を統合して、オリックス・バッファローズとなった。
Fri 2009 | トラックバック(-) | comment(7)


球史に残る強力打線 11

カテゴリー: オリックス・バファローズ

オリックス ブルーサンダー打線

ブーマー・ウェルズ


 1988年、日本野球連盟の創設メンバーでもあった老舗球団の阪急ブレーブスが、オリエントリース(現オリックス)に譲渡されオリックス・ブレーブスとなった。同時期に、大阪を本拠地とした南海ホークスもダイエーに身売りし福岡へ移転することとなった。これに際し、当時南海の4番打者であった門田博光が関西への残留を希望し、阪急に引き続き兵庫県西宮市を本拠地とするオリックスに移籍することとなった。ブレーブスのチームカラーのブルーと重ね合わせ「ブルーサンダー打線」と名付けられた。
 オリックス・ブレーブスの名称は、89年と90年のみで、91年から2004年までオリックス・ブルーウェーブ、2005年に近鉄と合併し、現在のオリックス・バッファローズとなっている。
 
 移籍してきた門田は南海での最後の年となった1988年、40歳ながら44本塁打、125打点を挙げ2冠を獲得、打率も.311であった。新球団のオリックスには、主軸のブーマー・ウェルズ、石嶺和彦、前年20本塁打と成長著しい藤井康雄、3割打者の常連で2桁本塁打が期待できる史上最強のスィッチヒッター松永浩美もおり、その他は、職人芸の福良淳一、本西厚博、小川博文、強肩キャッチャー中嶋聡で、打線は構成された。

  1989年第一次ブルーサンダー打線

1 松永浩美   サード
2 福良淳一   セカンド
3 ブーマー.W  ファースト
4 門田博光   DH
5 石嶺和彦   レフト
6 藤井康雄   ライト
7 本西厚博   センター
8 中嶋聡     キャッチャー
9 小川博文   ショート

打線の特徴は、前年本塁打王である門田の加入により、3~6番に、右・左・右・左と、本塁打を期待できる打者を交互に並べることができた点にある。また、これに伴い、前年までクリーンアップの3番を担うことの多かった松永が1番に座り、その打率の高さを生かすことができた。7番センター以外は、ほぼ固定のオーダーであった。7番センターには守備力の高い本西厚博が多く出場したが、熊野輝光、南牟礼豊蔵、山森雅文が起用されることもあった。熊野は1985~87年にレギュラーとして活躍した選手であり、山森はアメリカ野球殿堂に顕彰されるほど守備力に秀でた選手であった。
 
 ブーマーは、1984年に外国人初の三冠王の栄冠に輝いているが、この年の活躍も目覚ましく、打率・打点の2冠王を獲得している。阪急~オリックスに9年、最後の1年はダイエーで10年間日本球界に在籍したが、3割を切った年は、2年しかない。
 .389の国内最高打率を残すなど、派手さでは、阪神のランディ・バースに及ばないが、在籍年数(ブーマー10年、バースは6年)からいっても、タイトル取得回数からいっても(バースの3冠王以外に、ホームラン王1回と首位打者1回に対し、ブーマーは、同じく3冠王以外に、首位打者1回と打点王を3回獲得)、まさに史上最強の助っ人と言えよう。

 ブーマーと門田を中心にした打線の活躍は、1989年のペナントレースをまれに見る激しい争いとなる一因とした。チームは開幕8連勝でスタートするなど、打線の好調さもあって開幕から首位を走り続けた。しかし、8月に9勝16敗と大きく負け越し、近鉄・西武との三つ巴の激しい争いとなり、最終的にはオリックスは72勝55敗3分、勝率.567であり、71勝54敗5分、勝率.568の近鉄にゲーム差0で2位に終わった。

1995年第二次ブルーサンダー打線

 門田とブーマーはそれぞれ1991年と1992年に福岡ダイエーホークスへ、また松永と石嶺がそれぞれ1993年と1994年に阪神タイガースへ移籍したため、第一期ブルーサンダー打線は、一旦中断するが、1995・96年とリーグ連覇、96年は19年ぶり4回目の日本一となり、ブルーサンダー打線が復活した。

1 イチロー   センター
2 田口壮    レフト
3 D・J      ファースト
4 T.ニール   D・H
5 藤井康雄   ライト
6 小川博文   セカンド
7 馬場敏史   サード
8 中嶋聡    キャッチャー
9 勝呂壽統   ショート

 上記が標準的なメンバーであるが、オリックス監督就任2年目の仰木彬は、「日替わりオーダー」と呼ばれる、固定メンバーによらない方針をとり、打線が毎試合のように変わった。  二塁には福良、左翼には高橋智(この場合は田口壮が中堅、イチローが右翼を守った)、捕手には高田誠、三輪隆らも起用された。4番打者としてニールが活躍したが、ニールの不調時にはD・J、藤井、高橋が代わりに4番を打った。相手投手が左の場合、小川博文が4番を打ったこともあった。また、シーズン終盤に1番で不振だったイチローを3番にしたりもした。

 イチローは、入団3年目の1994年に、日本記録となる年間210安打を放ち、この年から3年連続MVP、7年連続首位打者、5年連続最多安打と大ブレイクしている。今や世界のイチローである。
彼を育てたのは、仰木監督と新井打撃コーチであることは、周知である。
 1995年は、主にトップを打ったが、翌年途中以降は3番に定着し、2000年には4番に座った。

 1996年も日替わり打線であったが、近鉄から移籍してきた大島公一が、ほぼ2番に入り、イチローが3番に定着したため、トップは田口、4番ニール、5番藤井と共に固定された。曲者小川は、大島の加入により、セカンドから本職のショートに戻り、主に7番を打った。

 仰木は西鉄時代、三原マジックと騒がれた故三原修監督の教え子であったが、選手を固定せず、その日調子の良い者、あるいは相手投手との相性などから選手起用し、打順も変えた。使われた選手は、監督の期待に応え、そんなことから仰木マジック(三原の再来)などと呼ばれたものだ。常に紳士的で、ダンディな知将であった。近鉄とオリックスの2球団を優勝させたが、西本幸男(大毎、阪急、近鉄の3チームを優勝)、上田利治(西本のあとを受けて阪急を優勝)、大沢親分(日ハムを優勝)、鶴岡一人(南海の黄金時代を築く)などと同じ、典型的なパリーグ一筋の監督であった。
Thu 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


球史に残る強力打線 10

カテゴリー: 記録

地元で愛された 近鉄いてまえ打線

R.ブライアント

 「いてまえ」とは大阪弁で、「やってしまえ」「やっつけろ」などの意味である。打線の雰囲気と地域性を同時に表すネーミングである。
 この名称は、近鉄の選手が相手投手を打ち込んだ際に近鉄応援団が「いてまえ~」と掛け声をしていたことに由来し、1990年代前半に自然発生的に誕生した名称で、2004年の近鉄球団消滅まで使われ続けた。(1980年代には、ネーミングされていない)
 つまり、近鉄・いてまえ打線は、阪神・ダイナマイト打線、松竹・水爆打線、毎日・大毎のミサイル打線、西鉄・流線型打線、南海400フィート打線などとは違い、特定の布陣を指すものではなく、メンバーは年度によって異なる。この傾向は、中日・強竜打線、広島・赤ヘル打線、横浜・マシンガン打線、ダイエー・ダイハード打線、日ハム・ビッグバン打線、オリックス・ブルーサンダー打線などと同じである。

 近鉄は長年、クリーンアップの長打力を重視した布陣を敷くことが多く、チーム本塁打数200本以上を3度(1980年、1985年、2001年)記録している。特に2001年は、チーム防御率がリーグ最低にもかかわらず、打線の力でチームをリーグ優勝に導いた。しかし、ただ本塁打を重視するのではなく、1番打者には俊足の選手を、2番打者には巧打の選手を必ず置いており、「いてまえ打線」の真骨頂はクリーンアップ頼りではなく、集中打による得点と、クリーンアップ以外の打者による効果的な本塁打である。
 
 1992年のいてまえ打線は、ラルフ・ブライアント、石井浩郎らの長打力に、大石大二郎(現オリックス監督)を中心とした機動力をミックスして得点を挙げた。 
 また、1980年代半ばから球団消滅まで、近鉄は捕手について1人を正捕手として固定起用せず、2人あるいは3人を併用していた。

   1992年いてまえ打線

1 大石大二郎    セカンド
2 新井宏昌      ライト
3 R.ブライアント   DH
4 石井浩郎      ファースト
5 金村義明      サード
6 J.リード      レフト
7 村上嵩幸      センター
8 古久保健二    キャッチャー
9 吉田剛       ショート

 この年は、タイトルホルダーなし。新井宏昌は、2000本安打を達成して、この年で引退。ブライアントは、シーズン198三振のプロ野球新記録を達成したが、三振かホームランという魅力的な選手だった。キャッチャーの控えには、光山英和がおり、8本塁打を放っている。外野には、9本塁打の鈴木貴久もおり、この年、外野手の規定打席到達者は村上だけであった。

 1993年も布陣に大きな変化はないが、引退した新井に代わってライトは、主に大洋から移籍したロバート・レイノルズが守っている。
 レイノルズは1991年、現役大リーガーとして大洋に入団したスイッチヒッターで、抜け目のない走塁と強肩が持ち味であった。1年目はプロ野球日本記録となる11打席連続安打を達成し、打率も.316をマークした。スイッチヒッターだが、右打席は極端な低打率で、左投手相手に左打席に立ったこともある。この年は外野手として、ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得している。
 近鉄に移籍した93年には、5番を任されたが、左投手に弱い点がネックとなり、常時出場できずに規定打席には達しなかった。

 J.リードに代わって、6番にはレフト鈴木貴久が入ったが、彼も含めて、この年の近鉄外野陣は、誰も規定打席には達しなかった。
 2番には、サードのポジションには、金村義明に代わって守った大島公一の出場が多かった。8番キャッチャーは、光山が出場機会を増やしている。
 トップの大石大二郎は、31盗塁で自身4度目の盗塁王を獲得しているが、35歳での盗塁王は、プロ野球史上最年長盗塁王である。
 また、ブライアントは、42本塁打と104打点で2冠王を獲得したが、シーズン204三振の世界新記録も樹立している。

 この年、6月5日のダイエー戦で9回裏に一挙7点をとって逆転サヨナラ勝ち。最終回での6点差逆転は日本記録である。

 1994年は、打線の爆発により7月26日から8月10日にかけて球団記録の13連勝(引き分けを挟む)を記録している。ブライアントが、2年連続ホームラン王、石井は、打点王に輝いている。3年間、ブライアントと石井は、不動の3・4番であった。 

 初期いてまえ打線は、92年~94年であるが、この間近鉄は一度も優勝していない。
パリーグ制覇は、1979年・80年・89年・2001年と4回あるが、日本一には、一度もなれないまま、2004年に球団消滅した。

 しかし、1997年8月24日のロッテ戦でプロ野球史上3度目の10点差逆転勝利(過去2回は、いずれも松竹)を記録したり、前述した、9回裏の6点差逆転サヨナラや2001年、北川博敏による代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打など、”逆転の近鉄”の異名をとるほど神がかった試合を何度も演出したユニークなチームである。
 
 1999年には、5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど投手陣崩壊のためチームは最下位であったが、ともにプロ野球史上初となるリーグ最下位チームからのベストナイン3人(中村紀洋、タフィ・ローズ、フィル・クラーク)選出、ローズによる本塁打・打点の2冠王誕生を記録した。
 2001年は、12年ぶり4度目のリーグ優勝を果たし、3番ローズ、4番中村の「二人で合計101本塁打」と、100本を超えたのはプロ野球史上初であった。


1980年、近鉄史上最強打線

 いてまえ打線と呼ばれる以前の最強布陣は、1980年である。前年から、2年連続のリーグ優勝を果たしたが、この年のチーム打率・本塁打数・得点数・打点数が近鉄バファローズとしての球団記録である。
  しかし、日本シリーズでは、前年同様2年連続して3勝4敗で広島に苦渋を飲まされた。
特に、この年のシリーズ7戦での”江夏の21球”は、あまりにも有名である。

1 平野光泰    センター    23本塁打
2 小川亨      ファースト   15本塁打
3 佐々木恭介   ライト      19本塁打
4 C.マニエル   DH       48本塁打
5 栗橋茂      レフト      28本塁打
6 羽田耕一    サード      30本塁打
7 梨田昌崇    キャッチャー   15本塁打
8 吹石徳一    ショート     12本塁打
9 石渡茂      セカンド      9本塁打

 9番石渡茂以外、1番から8番まで8人が2ケタホーマー、石渡も9本とあわやスタメン全員が2ケタホーマーであった。スタメン以外にも、梨田と共に2枚看板の捕手有田 が、16本、セカンドに、石渡と併用されたアーノルドが11本と、10人が2ケタホーマーを放ち、これは日本記録となっている。ポジション別を見ても、全ポジションが2ケタである。
 
 チーム本塁打数は、239本で2年前の広島の記録を更新する日本記録を樹立した。2004年に巨人に259本で更新されたが、1980年の近鉄は、130試合制での達成であった。
 得点791もパ・リーグ新記録を打ちたて、2003年に福岡ダイエーホークスが822得点を記録し、更新されるも、130試合での達成であり、試合数あたりで見ると依然パ・リーグ記録である。
 チーム打率.290は、当時パ・リーグ新記録で2003年に福岡ダイエーホークスが.297のプロ野球新記録を樹立するまで、22年間破られなかった。

 試合数を考慮すると、ホームラン・得点とも、1980年の近鉄が、史上最強だと思える。
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球史に残る強力打線 9

カテゴリー: 広島東洋カープ

機動力も兼ね備えた、広島赤ヘル打線

山本浩二

 広島東洋カープが初優勝したのは、1975年球団創立25年目であった。その間、根本陸夫監督が就任した1968年の3位を除き、毎年Bクラスに甘んじていた。根本が5年間采配を振るった後、別当薫森永勝也(.307で、史上最低打率ながら球団初の首位打者を獲得=野手では初のタイトルホルダー)とつないだが、いずれも最下位で1年間しか指揮を取らなかった。
 
 1975年、国内で初めて大リーグ出身監督として、ジョー・ルーツが、就任した。
ルーツは、「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」ということを身を持って示し「球界の革命児」と呼ばれた。前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色を、それまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変えた。広島の代名詞でもある「赤ヘル」の生みの親である。全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しなかった。
 一方で選手を集めた最初のミーティングで「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説。その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、竜憲一、藤井弘各コーチや山本一義ら選手達に大きな影響を与えた。
 また、チーム編成においても一塁手だった衣笠祥雄を三塁へコンバートした他、センターライン重要説を唱え、日本ハムから闘将大下剛史を獲得し、二塁手として主将を任せ精神的な支柱とした。主力投手の大型トレードも断行(白石静生 大石弥太郎を阪急に放出し、児玉、宮本幸信、渡辺弘基 を獲得、安仁屋宗八と阪神・若生智男との交換など)。
大きな遺産としてメジャーでは一般的だったスイッチヒッター転向を高橋慶彦に指令したりした。 
 オフシーズンでのチーム改革の手腕から、シーズンでの戦い振りが大いに注目されたが、日米の野球の違いなどで審判と事あるごとに衝突。4月27日、佐伯和司投手の阪神・掛布雅之への投球をボールと判定されたことに激高し審判に暴行し、その日ダブルヘッダーであったが、第2試合を前に帰国してしまった。
 
 15試合だけで監督を辞任したルーツの後任に古葉竹識コーチが昇格し、同年広島は、大下、三村敏之の俊足1・2番コンビをはじめ、ゲイル・ホプキンス、山本浩二、衣笠祥雄のクリーンアップ、3年後には首位打者を獲得する水谷実雄、投手では、外木場義郎(20勝で最多勝と奪三振王)、池谷公二郎(この年18勝で翌年20勝で最多勝)、佐伯らの活躍で、球団創設25年目にして悲願の初優勝を達成した。
日本シリーズでは、日本一6度目の挑戦となった阪急に2引き分けのみ、1勝もできずに敗退した。
   
  1975年 元祖赤ヘル打線

1 大下剛史     セカンド
2 三村敏之     ショート      10本塁打
3 G.ホプキンス  ファースト     33本塁打
4 山本浩二     センター      30本塁打
5 衣笠祥雄     サード       21本塁打
6 R.シェーン    ライト       13本塁打
7 水谷実雄     レフト        13本塁打
8 水沼四郎     キャッチャー

 広島に走る野球を持ち込んだ、大下が44盗塁で盗塁王。山本浩二は、ミスター赤ヘルと呼ばれ、首位打者とシーズンMVPと日本シリーズで敢闘賞を獲得している。
ホームラン30本を超えたのは、山本とホプキンスだけだが、2番から7番までの6人が、2ケタホーマーを放っている。

史上初の200ホーマー打線

 1978年はチームとして日本プロ野球史上初のシーズン200本塁打を記録。また、シーズン30本塁打以上を4人、20本塁打以上を5人が記録するなど、日本プロ野球史に残る打線である。
浩二がホームラン王、水谷は首位打者に輝いているが、3位にとどまり、ヤクルトに初優勝を許している。

1 高橋慶彦     ショート
2 三村敏之     セカンド     11本塁打
3 J.ライトル     ライト       33本塁打
4 山本浩二     センター     44本塁打
5 水谷実雄     ファースト    25本塁打
6 A.ギャレット   レフト       40本塁打
7 衣笠祥雄     サード       30本塁打
8 水沼四郎     キャッチャー

 1978年に赤ヘルが作ったホームラン200発の記録は、翌年と80年の2年連続日本シリーズで降す近鉄に80年、239本で破られ、さらに、2004年には巨人に259本の日本記録を樹立されている。
 シーズン200ホーマー以上は、近鉄が3回(1980年、85年、2001年)巨人が2回(2001年、04年)と2001年にダイエーが1回記録している。広島を加えて4チームしかないが、2001年は、3チームが記録したことになる。
 しかし、指名打者制をとるパリーグや、各チームの4番打者を金に物言わせ、獲得してきた巨人とは、比べるべくもあるまい。カープは外人を除き、常に自チームで選手を育成してきた球団である。
 
 シーズン30本塁打以上を4人輩出したチームは、1985年の阪神(真弓、バース、掛布、岡田)、2001年のダイエー(井口、小久保、松中、城島)、2004年の巨人(ローズ、高橋、小久保、阿部)と2007年の巨人(小笠原、高橋、李、阿部)であり、広島を含み5回ある。

ビッグレッドマシン

 1996年は好打者が揃い、当時の監督である三村敏之によって「ビッグレッドマシン」と命名された。
しかし、投手陣の崩壊で3位に甘んじている。

1 緒方孝市    ライト             23本塁打           50盗塁
2 正田耕三    セカンド
3 野村謙二郎   ショート            12本塁打
4 江藤智      サード      .314    32本塁打
5 前田智徳    センター     .313    19本塁打
6 L.ロペス    ファースト     .312    25本塁打     109打点
7 金本知憲    レフト       .300    27本塁打
8 西山秀二    キャッチャー   .314

 この年、50盗塁で盗塁王を獲得した緒方は、前年95年から3年連続盗塁王。また野村は、95年に3割・30ホーマー・30盗塁を達成している。 
 打撃部門のタイトルホルダーは、109打点で打点王を手にしたロペスだけだが、2ケタ本塁打6人、4番江藤から8番西山まで、5人の3割打者を出している。
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球史に残る強力打線 8

カテゴリー: 横浜ベイスターズ

止まらない1998年横浜マシンガン打線

マシンガン打線

 ホエールズの初優勝は、1960年大洋時代、前年最下位だったチームを就任一年目で優勝させ、世間に三原マジックと謳われた三原修監督の時であった。
 この年は、ミサイル打線と呼ばれた西本・阪急を下馬評を覆し、ストレートで破り、日本一の栄冠を手にしている。その38年後、12球団で一番間隔の空いた2度目の優勝であった。
この時も西武を破り、2度目の日本一になっている。ホエールズの優勝は、これまでこの2回しかないが(前身の松竹を除く)2度とも日本一、つまり、日本シリーズでの唯一、勝率10割のチームである。

 マシンガン打線誕生の背景には伝統的なチームカラーも影響していた。歴史上、田代富雄カルロス・ポンセグレン・ブラッグスなど僅かな例外を除き、チームの歴代看板打者は桑田武、近藤和彦、江尻亮、松原誠、長崎慶一、高木豊といった巧打の中距離打者であり、外国人もジョン・シピン、フェリックス・ミヤーン、ジム・パチョレックなどのアベレージヒッターを入団させる傾向が強かった。
 マシンガン打線全盛期のバッティングコーチであった高木由一も現役時代はそういった中距離打者の一人であり、同じようなタイプの打者の育成を最も得意とした。したがって高木はマシンガン打線の生みの親とされているが、同時に球団の伝統を集大成させたとも言える。

 4番のロバート・ローズを筆頭に各バッターは、単打・二塁打を連続して打ち続け、本塁打に頼らずに大量得点を重ねる画期的な攻撃スタイルを確立する。特に原動力となったのは、前年から3番に定着し、チームではジム・パチョレック以来7年ぶりの首位打者を獲得した鈴木尚典の成長である。横浜からは4シーズン連続して首位打者を輩出した。1997と98年鈴木と99年ローズと2000年の金城龍彦 である。
 98年は打線だけでなく、投手でも斎藤隆、野村弘樹、三浦大輔、川村丈夫の先発四天王と大魔神・佐々木主浩の活躍が光った。
特に佐々木は、防御率0.64、1勝1敗45セーブという驚異的な数字を残し、シーズンを通して打たれたホームランは1本、自責点4点という完璧な数字でMVPを獲得している。

 マシンガン打線の数字上のピークの年は、優勝翌年の1999年であった。特に、ローズが打率.369、192安打、153打点という驚異的な数字を残し、打率・打点の2冠王に輝いている。チームもシーズン通算打率.294でセリーグ最高記録を更新している。日本記録は、2003年に福岡ダイエーが達成した.297だが、指名打者制度で投手が打席に立たないパリーグ球団の記録との単純比較は無意味である。1999年の横浜の場合、投手の打撃成績を除けばチーム打率は3割を超えている。まさに、ホームランを別とした、最強打線である。
 この年は前年と打って変わって、主力投手陣が相次ぐ不振・故障によって崩壊状態に陥ったために連覇を逃してしまったが、打撃では2桁安打試合数が1桁安打試合数を上回るという驚異的なシーズンであった。

  1998・99年 マシンガン打線
 
1 石井琢朗   ショート
2 波留敏夫   センター
3 鈴木尚典   レフト
4 R..ローズ   セカンド
5 駒田徳広   ファースト
6 佐伯貴弘   ライト
7 進藤達哉   サード
8 谷繁元信   キャッチャー

 トップの石井は、1998年 174安打で最多安打。98~2000年、3年連続盗塁王。鈴木は、97・98年の首位打者。ローズは、99年、打率と打点の2冠王。駒田、ローズ、進藤、石井、谷繁の内野陣は、非常に高い守備力を誇り、5人とも98年には、ゴールデングラブ賞を受賞している。
 2000年以降、進藤、波留、谷繁の移籍やローズ、駒田の引退により、マシンガン打線は消滅した。

1964・65年メガトン打線

 ホエールズには、マシンガン打線以外にも、もっと強力な重量打線を有した時代もあった。
 1964年は、チーム打率が.255で1位、本塁打(134)と得点(556)が2位と打線が好調で、その長打力から「メガトン打線」の愛称が付いた。桑田武マイケル・クレスに三遊間を組ませ、捕手も土井淳に替えて強打の伊藤勲を起用。好打者近藤和彦を2番に据え、小技に長けた近藤昭仁をあえて下位に回すなど、1番から積極的に打って出る布陣を敷いた。チーム打率はリーグ1位ながら3割打者は1人もおらず、一方で2桁本塁打を記録した打者は5人を数えた。チームはリーグ優勝まであと一歩と迫ったが、惜しくも1ゲーム差で阪神タイガースに競り負けた。

1 重松省三   センター
2 近藤和彦   ファースト
3 M.クレス    サード
4 桑田武     ショート
5 長田幸雄    レフト
6 森徹      ライト
7 近藤昭仁   セカンド
8 伊藤勲     キャッチャー

翌1965年はチーム本塁打136本で1位を記録し、「メガトン打線」の愛称通りのリーグきっての長打力を発揮した。
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球史に残る強力打線 7

カテゴリー: 中日ドラゴンズ

何度も歌になった強竜打線

燃えよドラゴンズ!

 中日ドラゴンズは、1954年天知監督の下、西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。日本シリーズでも西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、初の日本一を制した。2度目のセリーグ制覇は、与那嶺監督が率いた1974年で、実に20年振りであった。日本シリーズでは、ロッテに敗れている。
 
 前年は、巨人と阪神がデッドヒートを繰り広げていたが、阪神が残り2試合(中日戦と巨人戦)のどちらかに勝てば優勝と言う時に、中日のエース星野仙一が立ちはだかり、阪神の優勝に待ったをかけたのである。最終戦に阪神は巨人に大敗し、涙を呑んでいる。
結果的に、星野が阪神の優勝を阻止したわけだが、アンチ巨人の星野は、勝利を喜ばなかった。
ヒーローインタビューで彼は、「阪神に勝って欲しいが、自分もプロである以上、手を抜く訳にいかない。阪神には、頑張って貰いたい。(翌日の巨人戦で)」と答えている。
 ここに星野の男気を見た。そして見事翌年、巨人のV10を阻止したのである。この年に、巨人・長島は、引退している。

 実際、この年の秋から球界は、ドラゴンズ色で盛り上がり、山本正之が作詞・作曲し、中日の初代リリーフエースで巨人キラーであった坂東英二が歌った”燃えよドラゴンズ”が、毎日のようにラジオで流れていた。そしてこの曲は、その後も歌詞を変えて何度もレコード・CD化されている。(75,77,79,82,87,88年、91年以降は、ほぼ毎年) 

 強竜打線は、チーム名から愛称化されたもので、これまでに紹介した松竹水爆打線/毎日・大毎ミサイル打線/西鉄流線型打線/南海400フィート打線/阪神ダイナマイト打線などとは、性質が異なり、迫力・破壊力とも見劣りする。また、いつ命名されたのかも、何年のどのメンバーの事を言っているのかも明確ではない。ただ、1974年は歌と共にドラゴンズの快進撃が、社会現象ともなったので、ここに掲げることにした。自分にとって、印象強いこの年こそ強竜打線と呼べるに相応しい気がする。

  1974年 強竜打線(歌詞に出てくる不動のオーダー)
 
1 高木守道    セカンド
2 谷木 恭平   センター
3 井上弘昭    レフト
4 G.マーチン  ライト
5 谷沢 健一    ファースト
6 木俣達彦    キャッチャー
7 島谷金二    サード
8 広瀬宰     ショート

 投手では、松本幸行が、広島の金城基康と共に20勝で最多勝のタイトルを、そしてこの年から導入された最優秀救援投手のタイトルに先発・抑えの両輪で活躍した星野が、受賞しているが、打撃部門でのタイトルホルダーは、皆無であった。巨人・が前年に続く2年連続の3冠王に輝き、MVPも持っていかれている。
 ホームランバッターもマーチン一人で、歌にあるようにあくまで、つなぐ打線であった。マーチンは、この年後半に怪我をしたが、優勝を争っている最中ということで、それを隠して試合出場している。浪花節の分かる真面目な優良助っ人であった。

 参考までに、元祖”燃えよドラゴンズ!”の歌詞を掲載する。

1.遠い夜空にこだまする
  竜の叫びを耳にして
  中日球場つめかけた
  僕らをじいんとしびれさす
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

2.一番 高木が塁に出て
  二番 谷木が送りバント
  三番 井上タイムリー
  四番 マーチンホームラン
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

3.五番 谷沢がクリーンヒット
  六番 木俣が流し打ち
  七番 島谷ヒットエンドラン
  八番 広瀬がスクイズバント
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

4.星野仙一強気の勝負
  松本 渋谷のミラクル投法
  鈴木 竹田の快速球
  三沢も稲葉も水谷も
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

5.一発長打の大島君
  代打男の江藤君
  スイッチヒッターウィリアム
  期待のルーキー藤波君
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

6.近藤コーチの作戦に
  森下コーチのピストンサイン
  井手も西田も控えてる
  華麗な守備の正岡も
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

7.トラを殺して優勝だ
  くじらを食べて優勝だ
  そしてにっくきジャイアンツ
  息の根止めて優勝だ
  いいぞ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!

8.僕もあなたも願ってる
  いのる気持ちで待っている
  それはひと言優勝だ
  与那嶺監督の胴上げだ
  がんばれ がんばれ ドラゴンズ
  燃えよ ドラゴンズ!
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球史に残る強力打線 6

カテゴリー: 阪神タイガース

元祖強力打線 阪神ダイナマイト打線

藤村富美男

 これまで日ハム・ビッグバン打線、松竹・水爆打線、毎日・ミサイル打線、西鉄・流線型打線、南海・400フィート打線と紹介してきたが、日本で初めて強力打線として命名されたのが、1946年の阪神・ダイナマイト打線である。
 1946年、破壊力抜群のタイガース打線を形容して、日刊スポーツの記者が命名し、1947年の優勝時に広まった。藤村富美男、別当薫、土井垣武のクリーンアップを軸に金田正泰、後藤次男ら好打者が並ぶ布陣であった。
1946年には、金田が首位打者、47・48年には、藤村が打点王、49年には、藤村がホームランと打点の2冠王に輝いている。
 1950年には、別当、土井垣、本堂保次の3人が、パの毎日に、長谷川善三は西鉄に引き抜かれ、後に第1次と呼ばれるこのダイナマイト打線は、1949年を最後に解散した。49年には、1番から6番までが、3割打者であった。
 
 その後、強力な打線がタイガースで結成されるたびに用いられ、1985年を第2次、2003年を第3次という。また、命名前であるため、当時はダイナマイト打線と呼ばれてはいなかったが、1930年代後半を第零次と呼ぶこともある。タイガースの打線は一般的に「猛虎打線」と呼ばれるが、「ダイナマイト打線」は打線が特に強力であった時期にのみ使われる。

  第1次ダイナマイト打線

1 後藤次男    センター    
2 金田正泰    レフト
3 別当薫      ライト
4 藤村富美男   サード
5 土井垣武    キャッチャー
6 本堂保次    セカンド
7 安居玉一    ファースト
8 長谷川善三   ショート

 スタメン8人のうち、藤村、後藤、金田の3人が、のちに阪神監督。別当に至っては、毎日・大毎、大洋、広島の監督に就任している。

1985年ニューダイナマイト打線(第2次
 
 1985年4月のランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の巨人・槇原から放った「バックスクリーン3連発」に代表される阪神の強力打線である。
 1番打者に足も速いが本塁打も打てる真弓明信を固定したところ、1番打者であるにも関わらず34本塁打、84打点をマーク。クリーンアップ3人と合わせて4人の3割・30ホーマー以上を生み出している。バースはこの年、外人では阪急・ブーマーに続く2人目の3冠王に輝いた。当然、シーズンのMVPであり、史上最強の助っ人といえよう。
 日本シリーズでは、弘田が2番・指名打者で出場し、4戦目からは、不調の佐野の代役を長崎が務め、パの西武を破り、球団初の日本一の座についている。。

1 真弓明信   ライト    .322   34本塁打    84打点
2 北村照文   センター
3 R.バース   ファースト .350     54本塁打   134打点
4 掛布雅之   サード   .300     40本塁打   108打点
5 岡田彰布   セカンド  .342     35本塁打   101打点
6 佐野仙好   レフト          13本塁打    60打点
7 平田勝男   ショート
8 木戸克彦   キャッチャー     13本塁打

 30ホーマー4人の記録は何度かあるが、クリーンアップが、3人とも100打点以上と言うのは、1950年松竹と2003年ダイエー(この時は6番バルデスも104打点で100打点カルテット)しかない。
6人が2ケタホームランで、1番真弓と6番佐野は、クリーンアップ並の打点を挙げている。

2003年第3次ダイナマイト打線

 2003年、星野仙一監督率いるタイガースが猛打で優勝したので、ダイナマイト打線の名称が復活したが、日本シリーズでは、パのダイエーに惜敗した。
 この年の打撃タイトルホルダーは、トップを打った今岡誠の首位打者のみだが、2番赤星憲広が、3年連続で盗塁王に輝いている。
なお、現在不動の4番である広島から移籍した金本知憲は、この年3番を打ち、赤星の盗塁を助け、次につなぐ打法に徹している。

1 今岡誠     セカンド
2 赤星憲広    センター
3 金本知憲    レフト
4 桧山進次郎  ライト
5 片岡篤史    ファースト
6 G.アリアス  サード
7 矢野輝弘    キャッチャー
8 藤本敦士    ショート

 これまでのダイナマイト打線は、猛虎魂の生え抜き選手がレギュラーを占めていたが、この年のメンバーを見ると、金本が広島、片岡篤史が日ハム、ジョージ・アリアスがオリックス、矢野輝弘が中日からと、半分の4人が、移籍選手で占められている。
 しかし、現在残っている金本と矢野は、完全に阪神の顔になりきっている。
Thu 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


球史に残る強力打線 5

カテゴリー: 福岡ソフトバンクホークス

古豪復活、ホークス・ダイハード打線

松中信彦

 南海は、1973年を最後に優勝から遠ざかり、長い低迷期を迎えた。
73年、当時パリーグは、前・後期制で、前期優勝の南海は、後期優勝の阪急をプレーオフで破り、パリーグを制した。しかし、日本シリーズでは、V9最後の巨人に1勝4敗と惨敗した。

 1988年には、身売りしてダイエーホークスとなった。1999年、福岡移転後パ・リーグ優勝・日本一、2000年にパ・リーグV2を達成した。
 ダイハードには「不死身」という意味があることから「何点取られても決して諦めない」という意味が込められている。また英語でダイハードの綴り(Die Hard)とダイエーホークスの綴り(Daiei Hawks)が似ていることから、「ダイハード打線」と命名した。
 ダイエーとなり、南海時代から数えて26年ぶりに優勝し、その2年後にダイハード打線は、命名された。この2001年は、近鉄に優勝をさらわれ、リーグ3連覇を阻止されはしたが、1978年の広島、1980年の近鉄に次ぐ、3番目のチームホームラン数200発を超えた(203本)破壊力抜群の恐怖打線であった。打撃部門のタイトルホルダーは出なかったが、井口資仁、小久保裕紀、松中信彦、城島健司の4人が30本塁打以上を放つというパ・リーグ初の快挙を達成(セリーグは、1985年の真弓、バース、掛布、岡田)し、スタメン9人のうち、2番から8番まで、7人が2ケタホームランを放っている。なお、井口は、44盗塁で自身初の盗塁王に輝いている。

  2001年第1次ダイハード打線

1 柴原洋    センター
2 P.バルデス レフト       21本塁打
3 井口資仁   セカンド     30本塁打   44盗塁  盗塁王
4 小久保裕紀  サード      44本塁打  ダイエー最多
5 松中信彦   ファースト    36本塁打
6 城島健司   キャッチャー   31本塁打
7 秋山幸二   ライト       11本塁打
8 T.ミッチェル DH        10本塁打 
9 鳥越裕介   ショート

 2003年は、100打点以上が史上初の4人、3割打者が6人、チーム打率は.297(1998年の横浜.294を抜く日本記録)と記録的に打ちまくった。更に井口が2度目の盗塁王を獲得し、村松が2位、川が3位と上位を独占し、機動力でも他を圧倒した。この打線を武器に、天敵・西武に1981年以来22年ぶりに勝ち越してのリーグ完全優勝を果たし、さらにセの阪神を破って、4年ぶりに日本一を奪回した。

  2003年第2次ダイハード打線

1 村松有人   センター      .324              32盗塁 2位
2 川崎宗則   サード                       30盗塁 3位
3 井口資仁   セカンド      .340  109打点       42盗塁 盗塁王
4 松中信彦   ファースト    .324  123打点 打点王
5 城島健司   キャッチャー   .330  119打点
6 P.バルデス  レフト       .311  104打点
7 J.ズレータ  DH 
8 芝原洋     ライト       .333
9 鳥越裕介   ショート

 2001年と2003年のオーダーのみ掲げたが、2004年には、松中が、野村・王・落合・ブーマー・バースに続く史上6人目の3冠王に輝くなど、ダイハード打線の名称は、2001年~2004年の4年間が、相応しいと言えよう。
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球史に残る強力打線 4

カテゴリー: 福岡ソフトバンクホークス

4次に渡る南海400フィート打線

南海ホークス

 400フィートはメートルに換算すると約122メートルで、この飛距離があればスタンドインする(ホームランになる)ということから名付けられた。

 南海ホークスは戦後、積極的な盗塁・走塁を駆使した機動力と、「100万ドルの内野陣」と呼ばれた堅守の内野守備を大きな特徴とし、リーグ優勝の常連チームだった。しかし、1951年~1953年に3年連続して日本シリーズでセの巨人に敗れたことで、監督の鶴岡一人(当時は山本姓)はそれまでの機動力野球の方針を転換し、強打の打線を形成することに着手した。1954年オフに、近鉄パールスから杉山光平をトレードで獲得し、1955年オフには穴吹義雄、長谷川繁雄、寺田陽介といった打撃評価の高い新人選手を獲得した。すぐには成果は出ず、1955年の日本シリーズではまたも巨人に敗れており、1956年から1958年にかけては西鉄ライオンズのリーグ3連覇を許した。

 1959年の南海打線は、杉山や「100万ドルの内野陣」時代からの岡本伊三美らベテランと、穴吹、長谷川、寺田、野村克也ら若手レギュラー陣によって形成された。杉山は首位打者に輝いた。
 チーム打率(.265)と得点(574)がリーグ1位、本塁打は90でリーグ2位と「400フィート打線」が力を発揮。投手陣では杉浦忠がエースとして38勝をマーク(1961年西鉄・稲尾和久の42勝、1950年の松竹・真田重蔵の39勝に次ぐ3番目の記録)し、チームは4年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでも、杉浦の4連投で巨人を4連勝で破り、念願の日本一に輝いた。

  1959年第1次400フィート打線

1 広瀬叔功     ショート
2 カールトン半田  サード
3 杉山光平     ライト
4 野村克也     キャッチャー
5 長谷川繁雄    センター
6 岡本伊三美    セカンド
7 寺田陽介     ファースト
8 穴吹義雄     レフト

1963年第2次400フィート打線

 
 1963年から南海打線は3年連続でチーム打率、本塁打、得点リーグ1位を記録する。
この年野村は、1950年松竹・小鶴誠のシーズン51本を更新する52本塁打を記録し、打点王と共に2冠に輝くなど4番打者として活躍。広瀬叔功は3年連続盗塁王に輝いた。前年に遊撃から中堅へとコンバートされた広瀬は、俊足を生かした守備も評価された。不振を極めた穴吹に替わり、右翼には樋口正蔵が定着し、ケント・ハドリは前年を上回る成績を残した。衰えの見えた岡本に替わって二塁には森下整鎮が起用された。2番打者から7番打者までの6人が、2ケタ本塁打を放つなど、対戦チームにとって気の抜けない打線となった。

 チーム打率(.256)、本塁打(184)、得点(626)ともに1位を記録し、投手陣も2度目の10勝投手6人(日本初は、1956年の田沢芳夫、野母得見、長光告直、皆川睦男、小畑正治、戸川一郎)を輩出したにもかかわらず、順位は2位にとどまった。
 1956年は、7月10日の時点で、2位西鉄に最大14.5ゲーム差をつけ、独走していたが、最終的には、0.5ゲーム差で西鉄に逆転優勝を許している。これは、最大ゲーム差逆転記録である。この年西鉄は、島原25勝、稲尾西村21勝と3人の20勝投手を輩出している。
 1963年も2ケタ勝利投手6人(森中千香良、ジョー・スタンカ、杉浦忠、三浦清弘、皆川、高橋栄一郎)を南海は、輩出しているにもかかわらず、またも西鉄にその栄冠を奪われている。
 ちなみに、同一チームで2ケタ勝利投手6人を輩出したのは、先に挙げた南海の2回と2005年のロッテが記録しているのみであるが、優勝したのは、2005年のロッテだけということになる。ロッテの6人は、セラフィニ、小林宏之、清水直行、渡辺俊介、久保康友、小野真吾である。

 1963年の南海は、2冠王・野村を中心に、6人の2ケタ本塁打、リーグ一の打率・本塁打・得点という屈指の強力打線と2ケタ勝利投手6人を輩出したにもかかわらず、さらには、名将鶴岡監督で優勝できなかったということは、全く不可解としか言いようがない。

  1963年第2次400フィート打線

1 樋口正蔵  ライト
2 広瀬叔功  センター
3 B.ピート  サード
4 野村克也  キャッチャー
5 K.ハドリ  ファースト
6 井上登    レフト
7 小池兼司  ショート
8 森下整鎮  セカンド

1964年第3次400フィート打線

 1964年も野村は本塁打と打点の2冠に輝いた。広瀬は開幕から89試合目まで打率4割をキープし、最終的に打率.366で首位打者となった。春先から31連続盗塁成功を記録するなど俊足も大いに生かし、自己最高の72盗塁で4年連続盗塁王。阪急ブレーブスから出戻りの杉山は、右翼を守った。左翼は井上登堀込基明が競い、最終的に井上は代打に回った。前年二塁を守った森下は慣れた三塁へ戻り、二塁は国貞泰汎が3年目にして初めて抜擢された。

チーム打率.259、本塁打144、得点653で3部門ともリーグ1位。投手陣の好調も相まってチームはリーグ優勝し、阪神タイガースとの日本シリーズも制した。

1 堀込基明  レフト
2 広瀬叔功  センター
3 杉山光平  ライト
4 野村克也  キャッチャー
5 K.ハドリ  ファースト
6 小池兼司  ショート
7 森下整鎮  サード
8 国貞泰汎  セカンド

1965年第4次400フィート打線

 1965年は野村が、2リーグ分裂後初の3冠王に輝いた。広瀬は5年連続盗塁王。杉山の不振から、樋口正蔵が右翼に起用され、近鉄バファローズから移籍してきたジャック・ブルームが杉山に替わって3番を打った。

チーム打率(.255)、本塁打(153)、得点(614)は3年連続リーグ1位。この打撃力と2ケタ勝利投手5人で、チームは2位に12ゲーム差を付けてリーグ連覇するものの、日本シリーズで巨人に屈した。巨人は、この年から、ON時代の到来で不世出の大記録であろう日本一9連覇を達成している。

1 広瀬叔功    センター
2 樋口正蔵    ライト
3 J.ブルーム  セカンド
4 野村克也    キャッチャー
5 K.ハドリ    ファースト
6 堀込基明    レフト
7 小池兼司    ショート
8 森下整鎮    サード

 前述通り、1963から3年連続でチーム打率、本塁打、得点リーグ1位を記録した400フィート打線は、多少のメンバー変更があったとはいえ、野村を中心とした南海最強の打線であったといえる。
Tue 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


球史に残る強力打線 3

カテゴリー: 埼玉西武ライオンズ

西鉄ライオンズ、流線型打線
="_blank">西鉄ライオンズ

 西鉄ライオンズは、1956年から3年連続日本一の覇を遂げるが、2年目の1957年が、ライオンズ最強打線だといえよう。
公式戦では2位の南海ホークスに7ゲーム差をつけ、日本シリーズでは読売ジャイアンツを4勝1分けと圧倒した。同一チーム同士の対戦でシリーズ3連敗は、西鉄対巨人しかなく、日本一最多回数を誇る巨人も、当時の西鉄には全く歯が立たなかった。
 1958年には、3連勝の後4連敗を喫しており、世に”神様・仏様・稲尾様”の言葉を残し、稲尾に4勝すべてを献上している。

 1957年のシーズン、2番の豊田泰光は、2番打者でありながらクリーンアップ並の成績を挙げた。恐怖の2番打者の先駆けとも言える。7番打者であった仰木彬(のちに近鉄と阪急の監督となり、両チームとも優勝させている)は絶対的なレギュラーでなかったものの、仰木を除くレギュラーメンバー7人が1957年のオールスターゲームに選出されるなど、その名の通り「最強打線」であった。

 1957年流線型打線 

1 高倉輝幸  センター
2 豊田泰光  ショート
3 中西太    サード
4 大下弘    ライト
5 関口清治  レフト
6 河野昭修  ファースト
7 仰木彬    セカンド
8 和田博美  キャッチャー 

 3番中西は、1952年に入団し、新人王。翌53年には、打率.314、36本塁打、36盗塁と3人目(過去の2人は、松竹・岩本と毎日・別当)の3割・30発・30盗塁を記録している。しかも、本塁打王・打点王を獲得。打率で岡本(南海)に4厘差で敗れて2冠王になった。
 1955年は首位打者・本塁打王になったが、1打点差で打点王を逃し、2冠王で終わった。
翌56年は本塁打王・打点王となりながら、三原監督の配慮によって最終戦に出場せず、同僚の豊田にわずか5毛差の.3246で2位でまたも2冠王となった。
 1958年には首位打者・本塁打王になりながら打点で並んでいた葛城(大毎)が最終打席で本塁打し、4度にわたって3冠王を逃している。

ノーリミット打線

 西鉄は、1969年の黒い霧事件(八百長に絡んだとして、エース池永正明・をはじめ、永易将之、与田順欣・益田昭雄の4投手が、永久追放。捕手の村上公康船田和英内野手が出場停止処分を受けた)の影響なども有り、1970年から3年連続最下位の屈辱を味わい、1972年に太平洋クラブに売却された。しかし、その後のクラウンライター時代も含め、長く低迷した。
 
 1979年に西武ライオンズとしてスタート。土台を根本監督が築き、1982年就任した広岡達朗監督の下でリーグ戦のプレーオフ(1973年から前期・後期制導入)を制し、セリーグ優勝チームの中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、24年ぶりの日本一に輝いた。
 1986年から指揮を執った森祗晶監督は、94年までの9年間で1989年を除き(この年は近鉄が優勝)すべて、リーグを制し、日本一にも6回覇を唱えている。
 この9年間が西武の全盛期で、辻発彦、平野謙、秋山幸二、清原和博、オレステス・デストラーデ、、石毛宏典、森博幸、田辺徳雄、伊東勤、と固定した強力打線ではあったが、クリーンアップのA・K・D砲以外、特に強力打線としての命名はない。

 むしろ、当時よりずっと小粒であるが、2008年の早いカウントからの積極的に思い切り振りぬく打線に対して、ノーリミット打線が命名されている。

 2008年ノーリミット打線

1 片岡易之   セカンド   50盗塁で2年連続盗塁王  167安打で最多安打
2 栗山巧     センター  打率..317    片岡と並んで167安打で最多安打
3 中島裕之   ショート   打率.331
4 C.ブラゼル  ファースト
5 GG佐藤    レフト     打率.302
6 中村剛也   サード    46本塁打で初のホームラン王
7 後藤武敏   DH      打率.301
8 細川亮    キャッチャー
9 H.ボカチカ  ライト

198ホーマーは、2008年12球団一ながら三振数1093も同。つまり、カウントを追い込まれても 、恐れず当てに行かず、思い切り振っていった証左である。
 上記オーダーのうち、片岡を除く8人が、2ケタホームランを放っている。5試合連続3ホーマーというパリーグタイ記録に並んだり、日本シリーズ7戦連続ホームランというシリーズ記録も作っている。
 しかし、ホームランに頼るだけではなく、盗塁数も12球団2番目の107盗塁と、機動力も重視している。
Sun 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


球史に残る強力打線 2

カテゴリー: 千葉ロッテマリーンズ

ミサイル打線(毎日~大毎~ロッテ)

別当薫

 1950年、2リーグ分裂後にセリーグを制したのは、松竹ロビンスであるが、パリーグの覇者は、毎日オリオンズである。毎日は大毎、東京を経て現在のロッテになっている。

 この年毎日は、1リーグ時代に「ダイナマイト打線」と呼ばれ強打を誇っていた阪神タイガースから別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征ら主力選手を引き抜き、加えてノンプロの強豪であった大洋漁業から主軸の河内卓司・戸倉勝城を獲得し、強力打線を形成した。ペナントレースでは、打率(.286)、本塁打(124)、得点(713)いずれも2位以下を大きく離してリーグトップであり、2位南海ホークスに15ゲーム差をつけ独走でリーグ優勝を飾った。
 日本シリーズでは、松竹を4勝2敗で下したが、6試合で4勝のうち、野村武史は、3勝を挙げている。それでもMVPは、別当が手にしている。
別当は、シーズンでもホームラン43本、打点105打点で2冠王に輝き、打率も3割3分5厘の2位で惜しくも3冠王を逃しているが、盗塁も34盗塁と堂々たるMVPであった。

 1950年 毎日ミサイル打線

1 河内卓司  サード
2 呉昌征    ライト
3 別当薫    センター
4 戸倉勝城  レフト
5 土井垣武  キャッチャー
6 本堂保次  セカンド
7 西本幸男  ファースト (のちに大毎・阪急・近鉄と3球団を優勝させている日本一の名監督)
8 今久留主功 ショート

大毎ミサイル打線

 日本一初制覇以来、しばらく毎日は低迷し、1958年から大毎オリオンズとなったが、1960年、毎日ミサイル打線を形成していた西本幸男が監督となり、ミサイル打線は復活した。
 この年大毎は、チーム打率(.262)と得点(547)がリーグ1位、本塁打数も1位に3本差の2位(100本)を誇る強力打線だった。同年6月にはプロ野球タイ記録の18連勝を記録し、この間の得点は1試合平均5.1点、また失点も平均2.4点と投打の噛み合わせも抜群で、最終的には2位の南海ホークスとの4ゲーム差の接戦を制した。
4番打者の山内和弘は打率.313でタイトルは逃したが、本塁打王(32本)と打点王(103打点)の二冠に輝き、シーズンMVPにも選出された。3番打者の榎本喜八は打率.344で首位打者のタイトルを獲得。2番打者の田宮謙次郎も打率.317をマークし、打率ランキングの上位3位をこの3人が占めた。

 しかし、日本シリーズでは、当時の下馬評を裏切り、セリーグ前年最下位から三原マジックと謳われ、初優勝した大洋に4戦ストレート負けを喫している。
 シりーズ第2戦では、スクイズを仕掛けた西本監督が、最後の監督となった1980年の近鉄でも、球史に残る”江夏の21球”により、涙を呑んでいる。
つまり、西本は日本シリーズで、最初なった監督と最後の監督でスクイズに泣いた男である。
常に弱小球団をリーグ制覇させてきた偉大な名監督でありながら、一度も日本一になっていない。

 1960年 大毎ミサイル打線

1 柳田利夫   ショート
2 田宮謙次郎 センター
3 榎本喜八   ファースト
4 山内和弘   レフト
5 葛城隆雄   サード
6 谷本稔    キャッチャー
7 坂本文次郎 セカンド
8 矢頭高雄   ライト

ロッテミサイル打線

 西本監督は、シリーズでのスクイズ采配をめぐり、永田オーナーと確執し、監督を辞任した。1963年限りで田宮は引退、オフには山内が阪神タイガースの主力投手である小山正明とトレード(世紀のトレード)、葛城も中日ドラゴンズに移籍など打線を支えた主力選手がチームを去り、事実上の終焉を迎えた。
 
 チーム名がロッテオリオンズに変わって初のリーグ優勝を果たした1970年の打線は、打率、本塁打、得点全てリーグ1位であり、また投手陣(成田・木樽・小山の3本柱)の好成績も相まって、2位を10.5ゲーム引き離す独走優勝となった。タイトルに輝くほどの突出した成績を残した打者はいなかったが、1番打者から6番打者までが2ケタ本塁打を放ち、さらには榎本とファーストで併用された中日から移籍の江藤愼一も11本塁打と、史上初の2ケタホームラン打者7人が誕生した。これは、指名打者制度を取っていない当時としては、特筆物だと思う。

 日本シリーズでは、得意のホームラン構成が鳴りを潜め、わずかに伏兵、井石礼司の活躍が目立ったくらいで、1勝4敗と巨人に惨敗した。

 1970年 ロッテミサイル打線

1 榎本喜八     ファースト
2 池辺巌       センター
3 A.ロペス     ライト
4 G.アルトマン  レフト
5 有藤通世     サード
6 山崎裕之     セカンド
7 醍醐猛夫     キャッチャー
8 千田啓介     ショート

 この他にも、2005年 バレンタイン監督率いるロッテにもチーム名をもじった”マリンガン打線”なる命名もあるが、過去の強力打線とは、程遠いので省く。
 よって、ミサイルを冠した強力打線は、奇しくも、50年・60年・70年と、毎日~大毎~ロッテとチーム名の変遷があるにしろ、節目の良い10年ごとに生まれている。
Sat 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


球史に残る強力打線

カテゴリー: 野球全般

松竹ロビンス、水爆打線

小鶴誠

 プロ野球のリーグが発足したのは、1936年であるが、セ・パ2リーグに分かれたのは、1950年である。2リーグ分裂後、セリーグ初優勝チームが、松竹ロビンスである。
 同チームの母体は、1936年に結成された大東京軍で、翌年にライオン軍、1941年朝日軍、46年パシフィック、47年太陽ロビンス、48年大陽ロビンス、50年松竹ロビンスと変遷し、1953年に大洋ホエールズと合併した。
 1950年、松竹ロビンスは、強力な水爆打線と命名された打線を組んで、セリーグ初優勝の栄冠を手にした。
 エース真田重蔵は、39勝(1961年、西鉄稲尾の42勝に次ぐ記録)で、最多勝を手にしたが、何といっても特筆されるのは、小鶴誠であろう。日本初の50本塁打以上(51本)もさることながら、181打点の日本記録は、不世出のものである。打率も3割5分5厘(2位)、あわやいきなり3冠王である。実に驚異的数字である。戦後初の大打者と言える。
 しかし、さらなる驚きは、この小鶴を押しのけて4番の座に座ったのは、岩本義行(のちに近鉄の監督)で、岩本は、初代の3割・30発・30盗塁をやってのけている。ちなみにこの年、日本シリーズで対戦する、パリーグの毎日オリオンズ、別当薫(のちに近鉄・大洋・広島で監督)も3割・30発・30盗塁を達成している。また、別当も本塁打と打点の2冠王に輝き、打率もリーグ2位であった。(小鶴と共にあわや両リーグで同時3冠王)
日本シリーズでは、シーズン18勝した、第2エースの野村武史(エースは、ルーキーながら23勝で最多勝、防御率トップ、新人王の荒巻淳)が、3勝を挙げている。
全く、2リーグ分裂直後の年に、いきなりこういった大記録が生まれたことが、奇跡的だ。

 松竹の水爆打線に戻るが、この年、98勝35敗4分けで、勝率7割3分7厘と実に驚異的な数字で、1試合平均、6.63点をたたき出している。(日本記録)
シーズン最多勝利日本記録は、1955年の南海99勝に更新された。
 日本プロ野球の最大点差の逆転ゲームは、10点差で過去に3回だけあるが、その内2回を松竹がやってのけている。1949年10月2日の大映スターズ戦と1951年5月19日の大洋ホエールズ戦である。あとは、1997年8月24日、大阪球場で近鉄がロッテ相手に記録しただけである。

 2リーグ分裂後、また戦後初の強力打線として命名された水爆打線は、以下の通りである。(ちなみに同年日本シリーズを制したパリーグの毎日オリオンズもミサイル打線と命名されている)とにかく、歴史的な凄い年であった。

1 金山次郎  セカンド
2 三村勲    サード
3 小鶴誠    センター
4 岩本義行  ライト
5 大岡虎雄  ファースト
6 木村勉    レフト
7 荒川昇治  キャッチャー
8 宮崎仁郎  ショート

 トップの金山次郎は、74個で盗塁王。この金山と小鶴、岩本が3割バッター。
小鶴、岩本、大岡虎雄のクリーンアップは、3人とも100打点以上。
クリーンアップが、100打点を超えた記録は、1985年阪神のバース、掛布、岡田と2002年のダイエー、バルデス、小久保、松中(この年は、6番城島も104打点)しかない。
Sun 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


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