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昭和を飾る最後のドラマ

カテゴリー: 記録

昭和から平成にかけての2年越しのドラマ

阿波野

 昭和63年のパリーグ優勝争いは、まれに見るドラマであった。
この年、前半は森監督率いる西武ライオンズの独走であった。近鉄が終始2位につけていたものの、シーズン中盤まで最大ゲーム差8をつけられ、9月15日の段階でも6ゲーム差と大きく水を空けられていた。森監督は昭和61年に、西武黄金時代を築いた広岡監督から監督をバトンタッチし、2年連続日本一を達成している。63年も、常勝西武に揺るぎはないかに思われた。
 
 しかし、9月半ばから近鉄バッファローズの快進撃が始まる。普通前半に首位を独走しているチームが、結果的にシーズンの優勝を逃すのは、自ら負けが込み始め、脱落していくものだが、この年の西武は、後半も5割ラインをキープしていたのである。それ以上に後半戦の近鉄の戦いぶりは、破竹の勢いだったのである。この年だけで近鉄は、2ケタ連勝を4度も記録している。
 あれよあれよという間に、西武に追いついてきた。そして運命の10月19日。西武は、16日に全日程を終了していた。近鉄は、残り2試合。この日のロッテ戦ダブルヘッダーに連勝すれば、勝率で西武を上回り、逆転優勝できるまでに、西武を追い詰めたのである。

 昨年の巨人も、最大13ゲームを付けられた阪神を破って逆転優勝したが、去年は阪神が自滅したのである。
 63年の近鉄は、主砲だったリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され、6月7日に解雇されている。6月28日、デービスの抜けた穴を埋めるため、急遽中日ドラゴンズからラルフ・ブライアントを金銭トレードで獲得したもののこの時点では、彼はまだ未知数であった。主力の金村義明は優勝争いのさなかに怪我をし、戦線離脱した。巨人とは、土台戦力が違うのだ。
 
 この頃は、西武の黄金時代で、対抗馬は阪急。近鉄を優勝候補に挙げる人など誰もいなかった。
ところが投手では、阿波野秀幸小野和義吉井理人が大車輪の活躍をした。ベン・オグリビーとトレード期間ぎりぎりに獲得したブライアントの両外人が、打線を引っ張った。

 昭和63年10月19日は、のちに10・19と呼ばれる球史に残る1日となった。
この日は、色々なニュースがあった。秋口から昭和天皇のご容態が懸念され始め、マスコミは毎日天皇のご容態について報道していた。また、1年前のこの日は、ニューヨーク株式市場の暴落を発端に、史上最大規模の世界的株安となり、ブラックマンデーと呼ばれた日だった。さらには、6月18日に起こったリクルート疑惑から、東京地検特捜部が、リクルート本社、コスモス社、社長室長松原自宅を家宅捜索に動いた日でもあった。
 球界でも、パリーグの老舗チーム阪急ブレーブスが、リース会社のオリックスに身売りを発表した日でもあった。

 このように、激動の昭和を物語る上でも、10月19日は、歴史的な日なのであった。各マスコミは早朝から、上記4つのビッグ・ニュースを追っかけていた。
自分は、平日だったこの日会社から帰宅し、当時毎日見ていたテレビ朝日のニュース・ステーションのチャンネルをひねった。流れるニュースの中、川崎球場のロッテ・近鉄戦の途中経過を伝えていた。第一試合は、近鉄が勝ち、優勝の望みは残されたとのことであった。
全日程を終了していた西武は、2位近鉄に0.5ゲーム差をつけていた。近鉄としては、ロッテとのダブルヘッダーに連勝するしか逆転優勝はなかったのである。

 ダブルヘッダーのルールとして、第一試合は、9回までで延長なし、この時点で同点なら引き分けで試合終了となるのである。つまり、逆転優勝を狙う近鉄は、2試合とも引き分けでさえ許されないのだ。近鉄としては厳しい条件だ。 
 全国のプロ野球ファンは、西武ファンとロッテファンを除き、皆近鉄を応援していたと思う。西武は、強すぎたし、日本人は元来判官贔屓だ。9月中盤からの近鉄の快進撃も神がかっていた。皆、奇跡を信じたいのだ。

 第1試合(試合開始15:00)
TEAM 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
近鉄  0 0 0 0 1 0 0 2 1 4
ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 0 3
試合時間3:21
 
第一試合は、ロッテ小川博、近鉄小野の先発だった。小川は、近鉄に相性が良かった。小野は、阿波野と共に近鉄投手陣を支えてきた。
 初回にロッテ愛甲猛に2ランを打たれたあと、近鉄打線の沈黙が続いた。5回表に鈴木貴久のソロで1点差に追いついたが、7回にはまた1点取られ突き離される。残り2回で2点差と後がなくなった。しかもここまで、小川に鈴木のソロ1本に抑えられていたのだ。
 8回表にその鈴木が、チーム2本目のヒットをライト前に放つ。仰木彬監督は、代打攻勢をかける。1死1・2塁から代打村上嵩幸が、フェンス直撃のニ塁打で走者一掃し、同点に追いついた。8回裏は、リリーフ・エースの吉井が抑えた。
 そして9回表、近鉄最後の攻撃、一死から淡口憲治がフェンス直撃のニ塁打、目の前での胴上げを阻止せんとする有藤道世監督の執念は、シーズン中リードした場面でしか使わなかったリリーフエースの牛島和彦をマウンドに送った。バッターは、この日2安打の鈴木、そして鈴木はまた打った。しかし、スタートの遅れた代走佐藤純一は、本塁憤死。ここで、誰もが終わったと思った。仰木監督は、この年で引退を決めていた梨田昌孝(現日ハム監督)を代打に送る。そして、梨田は執念の1打をセンター前へ、ついにこの試合始めて勝ち越した。
 9回裏、吉井が先頭打者に四球を与えたことで、仰木監督は、2日前に完投しているエースの阿波野にすべてを託した。2死から2ベース、死球でピンチを招いた阿波野だが、何とか抑えきって逃げ切り、第一試合をものにした。
 近鉄野球は全員野球だが、第一試合の立役者は、鈴木と梨田であろう。特に鈴木は、怪我を押しての出場であった。かつて2割5分の打者の項で、彼の事を書いたが、実に勝負強い”侍”であった。

 こうして、近鉄は逆転優勝への望みを残した。第一試合の様子は、無論後で知ったことだが、第二試合に関しては、22時からのニュース・ステーションで中継を続けた。
ここで驚いたのは、前述の如く、この日のニュースは盛り沢山だったのである。しかも、リクルート疑惑に関しての報道は、朝日が真っ先だったにも拘らず、テレビ朝日で、後半は野球中継に切り替えたことは、称賛に値する。スポンサーも協力し、野球中継を延長した。本来ニュース番組で野球中継ではなかったのだ。このように、全国民のほとんどが、近鉄の奇跡を見たかったのである。
 こんな事がこれまであったであろうか。当時、パリーグのテレビ中継はほとんどなかったのである。のちに、長嶋茂雄監督をして、「国民的情事」とまで言わしめた1994年の巨人対中日の10・8(同率首位での最終決戦)もこれほどの盛り上がりはなかった。

 そして運命の第二試合が幕を開けた。

 第2試合(試合開始18:44)
TEAM 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計
近鉄   0 0 0 0 0 1 2 1 0 0  4
ロッテ 0 1 0 0 0 0 2 1 0 0   4
           試合時間4:12

 近鉄先発は、高柳出己、ロッテ先発は、園川一美であった。2回裏、高柳がビル・マドロックに1発を浴び、またしてもロッテに先手を取られてしまう。
6回表、オグリビーのタイムリーで同点に追いつくと、7回表には、怪我の金村の代役吹石徳一のソロで勝ち越し、更に真喜志康永にもホームランが出て、 3対1とし、2点のリードを奪う。残り3回で優勝が見えてきた。
 しかし7回裏、高柳が打たれ、代った吉井も西村徳文にタイムリーを打たれ、あっさり同点においつかれてしまう。
8回表、これまで眠っていたブライアントのソロで再び勝ち越した。その裏、第1試合に続きエース阿波野が連投のマウンドに上がる。この時点で近鉄は勝つかと思われた。
 ところが連投の疲労からか、首位打者を狙う高沢秀昭に得意のスクリューを同点ホームランされた。9回表が無得点に終った近鉄は、この裏を抑えて、4時間を超えて次のイニングの延長に入らないというルールから、時間とも戦わなければならなかった。
 9回の裏、続投の阿波野は、無死1・2塁のサヨナラ負けのピンチを迎える。だが、阿波野の高目に浮いた2塁牽制球を大石大二郎(現オリックス監督)が飛び上がってキャッチし、走者にタッチし、審判はアウトを告げた。ここで、ロッテ・ベンチから有藤監督が飛び出し、猛然と抗議する。大石は走塁妨害だというのだ。抗議は長引き、9分間の中断。結局、判定は覆らずアウト。その後もピンチを迎えながらも、何とか阿波野は抑えきった。
 しかし、この時点で10時30分。残り10分足らずでは、近鉄の攻撃は、10回表の1イニングしかないことは明確であった。
10回表、先頭のブライアントがエラーで出塁したものの、続くオグリビーは三振、ベテラン羽田耕一は、ゲッツーで近鉄の夢は消えた。
10回裏の守備につく近鉄のナイン。もう、優勝はない。だが、まだ試合は続いている。虚しい守備…。
 延長10回、時間切れ引き分け。客席では泣きじゃくるファンの姿も数多く見られた。この日の川崎球場は、ロッテの本拠地ではあっても、近鉄を応援するファンで埋め尽くされたのだ。

 自分もテレビの前にくぎ付けとなり、近鉄を応援した。恐らく大多数の国民も同じ気持ちだったであろう。近鉄は負けなかった。引き分けでも優勝は逃したのだ。これほどのドラマがあるであろうか?
 優勝できなかった近鉄ナインは、仰木監督の指示のもと、ビジターでは異例の、心から応援してくれた3塁側、そして外野スタンドのファンに一礼し、帽子を振って応えた。実に清々しかった。彼等は精いっぱい戦ったのだ。選手も泣いていた。
自分は、ここから仰木監督が好きになり、来年こそと思った。

 そして、明くる平成元年、この年も西武・オリックスとの三つ巴の大混戦となったが、ブライアントの対西武戦3連発もあり、見事近鉄はリーグを制した。3位オリックスまで0.5ゲームという大接戦であった。近鉄は、昭和最後の大ドラマ”10・19”の屈辱をバネに、栄冠を手にしたのである。
 しかし、残念ながら日本シリーズでは、巨人に3連勝しながら、”加藤哲郎の舌禍事件”で有名になってしまったが、4連敗し、シリーズ敗退した。いかにも近鉄らしい。
 結局近鉄は、12球団唯一(新生の楽天は除く)、一度も日本一を経験しないまま2003年のシーズンを最後に、球団消滅してしまったのである。

 地元を大阪に移し、大阪で愛された近鉄。過去には、日本記録である10点差を逆転したり、初回の6点差をはね返したり、”逆転の近鉄”と呼ばれたこともあった。一度火が点くと、手がつけられない”いてまえ打線”。昭和の最後と平成元年で見せた2年越しのドラマ。パリーグ屈指のユニークな愛すべき球団なのであった。
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Fri 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


球史に残る強力打線 10

カテゴリー: 記録

地元で愛された 近鉄いてまえ打線

R.ブライアント

 「いてまえ」とは大阪弁で、「やってしまえ」「やっつけろ」などの意味である。打線の雰囲気と地域性を同時に表すネーミングである。
 この名称は、近鉄の選手が相手投手を打ち込んだ際に近鉄応援団が「いてまえ~」と掛け声をしていたことに由来し、1990年代前半に自然発生的に誕生した名称で、2004年の近鉄球団消滅まで使われ続けた。(1980年代には、ネーミングされていない)
 つまり、近鉄・いてまえ打線は、阪神・ダイナマイト打線、松竹・水爆打線、毎日・大毎のミサイル打線、西鉄・流線型打線、南海400フィート打線などとは違い、特定の布陣を指すものではなく、メンバーは年度によって異なる。この傾向は、中日・強竜打線、広島・赤ヘル打線、横浜・マシンガン打線、ダイエー・ダイハード打線、日ハム・ビッグバン打線、オリックス・ブルーサンダー打線などと同じである。

 近鉄は長年、クリーンアップの長打力を重視した布陣を敷くことが多く、チーム本塁打数200本以上を3度(1980年、1985年、2001年)記録している。特に2001年は、チーム防御率がリーグ最低にもかかわらず、打線の力でチームをリーグ優勝に導いた。しかし、ただ本塁打を重視するのではなく、1番打者には俊足の選手を、2番打者には巧打の選手を必ず置いており、「いてまえ打線」の真骨頂はクリーンアップ頼りではなく、集中打による得点と、クリーンアップ以外の打者による効果的な本塁打である。
 
 1992年のいてまえ打線は、ラルフ・ブライアント、石井浩郎らの長打力に、大石大二郎(現オリックス監督)を中心とした機動力をミックスして得点を挙げた。 
 また、1980年代半ばから球団消滅まで、近鉄は捕手について1人を正捕手として固定起用せず、2人あるいは3人を併用していた。

   1992年いてまえ打線

1 大石大二郎    セカンド
2 新井宏昌      ライト
3 R.ブライアント   DH
4 石井浩郎      ファースト
5 金村義明      サード
6 J.リード      レフト
7 村上嵩幸      センター
8 古久保健二    キャッチャー
9 吉田剛       ショート

 この年は、タイトルホルダーなし。新井宏昌は、2000本安打を達成して、この年で引退。ブライアントは、シーズン198三振のプロ野球新記録を達成したが、三振かホームランという魅力的な選手だった。キャッチャーの控えには、光山英和がおり、8本塁打を放っている。外野には、9本塁打の鈴木貴久もおり、この年、外野手の規定打席到達者は村上だけであった。

 1993年も布陣に大きな変化はないが、引退した新井に代わってライトは、主に大洋から移籍したロバート・レイノルズが守っている。
 レイノルズは1991年、現役大リーガーとして大洋に入団したスイッチヒッターで、抜け目のない走塁と強肩が持ち味であった。1年目はプロ野球日本記録となる11打席連続安打を達成し、打率も.316をマークした。スイッチヒッターだが、右打席は極端な低打率で、左投手相手に左打席に立ったこともある。この年は外野手として、ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得している。
 近鉄に移籍した93年には、5番を任されたが、左投手に弱い点がネックとなり、常時出場できずに規定打席には達しなかった。

 J.リードに代わって、6番にはレフト鈴木貴久が入ったが、彼も含めて、この年の近鉄外野陣は、誰も規定打席には達しなかった。
 2番には、サードのポジションには、金村義明に代わって守った大島公一の出場が多かった。8番キャッチャーは、光山が出場機会を増やしている。
 トップの大石大二郎は、31盗塁で自身4度目の盗塁王を獲得しているが、35歳での盗塁王は、プロ野球史上最年長盗塁王である。
 また、ブライアントは、42本塁打と104打点で2冠王を獲得したが、シーズン204三振の世界新記録も樹立している。

 この年、6月5日のダイエー戦で9回裏に一挙7点をとって逆転サヨナラ勝ち。最終回での6点差逆転は日本記録である。

 1994年は、打線の爆発により7月26日から8月10日にかけて球団記録の13連勝(引き分けを挟む)を記録している。ブライアントが、2年連続ホームラン王、石井は、打点王に輝いている。3年間、ブライアントと石井は、不動の3・4番であった。 

 初期いてまえ打線は、92年~94年であるが、この間近鉄は一度も優勝していない。
パリーグ制覇は、1979年・80年・89年・2001年と4回あるが、日本一には、一度もなれないまま、2004年に球団消滅した。

 しかし、1997年8月24日のロッテ戦でプロ野球史上3度目の10点差逆転勝利(過去2回は、いずれも松竹)を記録したり、前述した、9回裏の6点差逆転サヨナラや2001年、北川博敏による代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打など、”逆転の近鉄”の異名をとるほど神がかった試合を何度も演出したユニークなチームである。
 
 1999年には、5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど投手陣崩壊のためチームは最下位であったが、ともにプロ野球史上初となるリーグ最下位チームからのベストナイン3人(中村紀洋、タフィ・ローズ、フィル・クラーク)選出、ローズによる本塁打・打点の2冠王誕生を記録した。
 2001年は、12年ぶり4度目のリーグ優勝を果たし、3番ローズ、4番中村の「二人で合計101本塁打」と、100本を超えたのはプロ野球史上初であった。


1980年、近鉄史上最強打線

 いてまえ打線と呼ばれる以前の最強布陣は、1980年である。前年から、2年連続のリーグ優勝を果たしたが、この年のチーム打率・本塁打数・得点数・打点数が近鉄バファローズとしての球団記録である。
  しかし、日本シリーズでは、前年同様2年連続して3勝4敗で広島に苦渋を飲まされた。
特に、この年のシリーズ7戦での”江夏の21球”は、あまりにも有名である。

1 平野光泰    センター    23本塁打
2 小川亨      ファースト   15本塁打
3 佐々木恭介   ライト      19本塁打
4 C.マニエル   DH       48本塁打
5 栗橋茂      レフト      28本塁打
6 羽田耕一    サード      30本塁打
7 梨田昌崇    キャッチャー   15本塁打
8 吹石徳一    ショート     12本塁打
9 石渡茂      セカンド      9本塁打

 9番石渡茂以外、1番から8番まで8人が2ケタホーマー、石渡も9本とあわやスタメン全員が2ケタホーマーであった。スタメン以外にも、梨田と共に2枚看板の捕手有田 が、16本、セカンドに、石渡と併用されたアーノルドが11本と、10人が2ケタホーマーを放ち、これは日本記録となっている。ポジション別を見ても、全ポジションが2ケタである。
 
 チーム本塁打数は、239本で2年前の広島の記録を更新する日本記録を樹立した。2004年に巨人に259本で更新されたが、1980年の近鉄は、130試合制での達成であった。
 得点791もパ・リーグ新記録を打ちたて、2003年に福岡ダイエーホークスが822得点を記録し、更新されるも、130試合での達成であり、試合数あたりで見ると依然パ・リーグ記録である。
 チーム打率.290は、当時パ・リーグ新記録で2003年に福岡ダイエーホークスが.297のプロ野球新記録を樹立するまで、22年間破られなかった。

 試合数を考慮すると、ホームラン・得点とも、1980年の近鉄が、史上最強だと思える。
Sun 2009 | トラックバック(-) | comment(0)


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