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昭和を飾る最後のドラマ

カテゴリー: 記録

昭和から平成にかけての2年越しのドラマ

阿波野

 昭和63年のパリーグ優勝争いは、まれに見るドラマであった。
この年、前半は森監督率いる西武ライオンズの独走であった。近鉄が終始2位につけていたものの、シーズン中盤まで最大ゲーム差8をつけられ、9月15日の段階でも6ゲーム差と大きく水を空けられていた。森監督は昭和61年に、西武黄金時代を築いた広岡監督から監督をバトンタッチし、2年連続日本一を達成している。63年も、常勝西武に揺るぎはないかに思われた。
 
 しかし、9月半ばから近鉄バッファローズの快進撃が始まる。普通前半に首位を独走しているチームが、結果的にシーズンの優勝を逃すのは、自ら負けが込み始め、脱落していくものだが、この年の西武は、後半も5割ラインをキープしていたのである。それ以上に後半戦の近鉄の戦いぶりは、破竹の勢いだったのである。この年だけで近鉄は、2ケタ連勝を4度も記録している。
 あれよあれよという間に、西武に追いついてきた。そして運命の10月19日。西武は、16日に全日程を終了していた。近鉄は、残り2試合。この日のロッテ戦ダブルヘッダーに連勝すれば、勝率で西武を上回り、逆転優勝できるまでに、西武を追い詰めたのである。

 昨年の巨人も、最大13ゲームを付けられた阪神を破って逆転優勝したが、去年は阪神が自滅したのである。
 63年の近鉄は、主砲だったリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され、6月7日に解雇されている。6月28日、デービスの抜けた穴を埋めるため、急遽中日ドラゴンズからラルフ・ブライアントを金銭トレードで獲得したもののこの時点では、彼はまだ未知数であった。主力の金村義明は優勝争いのさなかに怪我をし、戦線離脱した。巨人とは、土台戦力が違うのだ。
 
 この頃は、西武の黄金時代で、対抗馬は阪急。近鉄を優勝候補に挙げる人など誰もいなかった。
ところが投手では、阿波野秀幸小野和義吉井理人が大車輪の活躍をした。ベン・オグリビーとトレード期間ぎりぎりに獲得したブライアントの両外人が、打線を引っ張った。

 昭和63年10月19日は、のちに10・19と呼ばれる球史に残る1日となった。
この日は、色々なニュースがあった。秋口から昭和天皇のご容態が懸念され始め、マスコミは毎日天皇のご容態について報道していた。また、1年前のこの日は、ニューヨーク株式市場の暴落を発端に、史上最大規模の世界的株安となり、ブラックマンデーと呼ばれた日だった。さらには、6月18日に起こったリクルート疑惑から、東京地検特捜部が、リクルート本社、コスモス社、社長室長松原自宅を家宅捜索に動いた日でもあった。
 球界でも、パリーグの老舗チーム阪急ブレーブスが、リース会社のオリックスに身売りを発表した日でもあった。

 このように、激動の昭和を物語る上でも、10月19日は、歴史的な日なのであった。各マスコミは早朝から、上記4つのビッグ・ニュースを追っかけていた。
自分は、平日だったこの日会社から帰宅し、当時毎日見ていたテレビ朝日のニュース・ステーションのチャンネルをひねった。流れるニュースの中、川崎球場のロッテ・近鉄戦の途中経過を伝えていた。第一試合は、近鉄が勝ち、優勝の望みは残されたとのことであった。
全日程を終了していた西武は、2位近鉄に0.5ゲーム差をつけていた。近鉄としては、ロッテとのダブルヘッダーに連勝するしか逆転優勝はなかったのである。

 ダブルヘッダーのルールとして、第一試合は、9回までで延長なし、この時点で同点なら引き分けで試合終了となるのである。つまり、逆転優勝を狙う近鉄は、2試合とも引き分けでさえ許されないのだ。近鉄としては厳しい条件だ。 
 全国のプロ野球ファンは、西武ファンとロッテファンを除き、皆近鉄を応援していたと思う。西武は、強すぎたし、日本人は元来判官贔屓だ。9月中盤からの近鉄の快進撃も神がかっていた。皆、奇跡を信じたいのだ。

 第1試合(試合開始15:00)
TEAM 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
近鉄  0 0 0 0 1 0 0 2 1 4
ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 0 3
試合時間3:21
 
第一試合は、ロッテ小川博、近鉄小野の先発だった。小川は、近鉄に相性が良かった。小野は、阿波野と共に近鉄投手陣を支えてきた。
 初回にロッテ愛甲猛に2ランを打たれたあと、近鉄打線の沈黙が続いた。5回表に鈴木貴久のソロで1点差に追いついたが、7回にはまた1点取られ突き離される。残り2回で2点差と後がなくなった。しかもここまで、小川に鈴木のソロ1本に抑えられていたのだ。
 8回表にその鈴木が、チーム2本目のヒットをライト前に放つ。仰木彬監督は、代打攻勢をかける。1死1・2塁から代打村上嵩幸が、フェンス直撃のニ塁打で走者一掃し、同点に追いついた。8回裏は、リリーフ・エースの吉井が抑えた。
 そして9回表、近鉄最後の攻撃、一死から淡口憲治がフェンス直撃のニ塁打、目の前での胴上げを阻止せんとする有藤道世監督の執念は、シーズン中リードした場面でしか使わなかったリリーフエースの牛島和彦をマウンドに送った。バッターは、この日2安打の鈴木、そして鈴木はまた打った。しかし、スタートの遅れた代走佐藤純一は、本塁憤死。ここで、誰もが終わったと思った。仰木監督は、この年で引退を決めていた梨田昌孝(現日ハム監督)を代打に送る。そして、梨田は執念の1打をセンター前へ、ついにこの試合始めて勝ち越した。
 9回裏、吉井が先頭打者に四球を与えたことで、仰木監督は、2日前に完投しているエースの阿波野にすべてを託した。2死から2ベース、死球でピンチを招いた阿波野だが、何とか抑えきって逃げ切り、第一試合をものにした。
 近鉄野球は全員野球だが、第一試合の立役者は、鈴木と梨田であろう。特に鈴木は、怪我を押しての出場であった。かつて2割5分の打者の項で、彼の事を書いたが、実に勝負強い”侍”であった。

 こうして、近鉄は逆転優勝への望みを残した。第一試合の様子は、無論後で知ったことだが、第二試合に関しては、22時からのニュース・ステーションで中継を続けた。
ここで驚いたのは、前述の如く、この日のニュースは盛り沢山だったのである。しかも、リクルート疑惑に関しての報道は、朝日が真っ先だったにも拘らず、テレビ朝日で、後半は野球中継に切り替えたことは、称賛に値する。スポンサーも協力し、野球中継を延長した。本来ニュース番組で野球中継ではなかったのだ。このように、全国民のほとんどが、近鉄の奇跡を見たかったのである。
 こんな事がこれまであったであろうか。当時、パリーグのテレビ中継はほとんどなかったのである。のちに、長嶋茂雄監督をして、「国民的情事」とまで言わしめた1994年の巨人対中日の10・8(同率首位での最終決戦)もこれほどの盛り上がりはなかった。

 そして運命の第二試合が幕を開けた。

 第2試合(試合開始18:44)
TEAM 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計
近鉄   0 0 0 0 0 1 2 1 0 0  4
ロッテ 0 1 0 0 0 0 2 1 0 0   4
           試合時間4:12

 近鉄先発は、高柳出己、ロッテ先発は、園川一美であった。2回裏、高柳がビル・マドロックに1発を浴び、またしてもロッテに先手を取られてしまう。
6回表、オグリビーのタイムリーで同点に追いつくと、7回表には、怪我の金村の代役吹石徳一のソロで勝ち越し、更に真喜志康永にもホームランが出て、 3対1とし、2点のリードを奪う。残り3回で優勝が見えてきた。
 しかし7回裏、高柳が打たれ、代った吉井も西村徳文にタイムリーを打たれ、あっさり同点においつかれてしまう。
8回表、これまで眠っていたブライアントのソロで再び勝ち越した。その裏、第1試合に続きエース阿波野が連投のマウンドに上がる。この時点で近鉄は勝つかと思われた。
 ところが連投の疲労からか、首位打者を狙う高沢秀昭に得意のスクリューを同点ホームランされた。9回表が無得点に終った近鉄は、この裏を抑えて、4時間を超えて次のイニングの延長に入らないというルールから、時間とも戦わなければならなかった。
 9回の裏、続投の阿波野は、無死1・2塁のサヨナラ負けのピンチを迎える。だが、阿波野の高目に浮いた2塁牽制球を大石大二郎(現オリックス監督)が飛び上がってキャッチし、走者にタッチし、審判はアウトを告げた。ここで、ロッテ・ベンチから有藤監督が飛び出し、猛然と抗議する。大石は走塁妨害だというのだ。抗議は長引き、9分間の中断。結局、判定は覆らずアウト。その後もピンチを迎えながらも、何とか阿波野は抑えきった。
 しかし、この時点で10時30分。残り10分足らずでは、近鉄の攻撃は、10回表の1イニングしかないことは明確であった。
10回表、先頭のブライアントがエラーで出塁したものの、続くオグリビーは三振、ベテラン羽田耕一は、ゲッツーで近鉄の夢は消えた。
10回裏の守備につく近鉄のナイン。もう、優勝はない。だが、まだ試合は続いている。虚しい守備…。
 延長10回、時間切れ引き分け。客席では泣きじゃくるファンの姿も数多く見られた。この日の川崎球場は、ロッテの本拠地ではあっても、近鉄を応援するファンで埋め尽くされたのだ。

 自分もテレビの前にくぎ付けとなり、近鉄を応援した。恐らく大多数の国民も同じ気持ちだったであろう。近鉄は負けなかった。引き分けでも優勝は逃したのだ。これほどのドラマがあるであろうか?
 優勝できなかった近鉄ナインは、仰木監督の指示のもと、ビジターでは異例の、心から応援してくれた3塁側、そして外野スタンドのファンに一礼し、帽子を振って応えた。実に清々しかった。彼等は精いっぱい戦ったのだ。選手も泣いていた。
自分は、ここから仰木監督が好きになり、来年こそと思った。

 そして、明くる平成元年、この年も西武・オリックスとの三つ巴の大混戦となったが、ブライアントの対西武戦3連発もあり、見事近鉄はリーグを制した。3位オリックスまで0.5ゲームという大接戦であった。近鉄は、昭和最後の大ドラマ”10・19”の屈辱をバネに、栄冠を手にしたのである。
 しかし、残念ながら日本シリーズでは、巨人に3連勝しながら、”加藤哲郎の舌禍事件”で有名になってしまったが、4連敗し、シリーズ敗退した。いかにも近鉄らしい。
 結局近鉄は、12球団唯一(新生の楽天は除く)、一度も日本一を経験しないまま2003年のシーズンを最後に、球団消滅してしまったのである。

 地元を大阪に移し、大阪で愛された近鉄。過去には、日本記録である10点差を逆転したり、初回の6点差をはね返したり、”逆転の近鉄”と呼ばれたこともあった。一度火が点くと、手がつけられない”いてまえ打線”。昭和の最後と平成元年で見せた2年越しのドラマ。パリーグ屈指のユニークな愛すべき球団なのであった。
Fri 2009 | トラックバック(-) | comment(0)

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球史に残る侍たち

カテゴリー: 野球全般

個性派揃いの昔の侍

 各チームの強力打線の項でも書いたが、埼玉西武ライオンズの前身である西鉄ライオンズは、流線型打線も破壊力があったが、メンバーの個性も凄かった。
 1958年の球史に残る巨人との日本シリーズでは、『神様・仏様・稲生様』と謳われた稲尾和久を始め、野手に侍が集まり、野武士軍団といわれたものだ。

 WBCで、サムライジャパンといわれたが、現役選手に本当の”侍”がいるだろうか?昔の豪快な選手を見てきた自分としては、どうしてもエピソードが多い昔のツワモノと比較してしまう。
2リーグ分裂後の1950年から70年ぐらいまでには、多くの侍がいた。
 現役で、過去の強打者と比較しても引けを取らないのは、鉄人金本ぐらいではなかろうか?(単なる数字だけでなく、頑健さを含んで)
 投手も昔は、中三日が当たり前、シーズンのローテーションを3人の投手でまかない、エース級は20勝が当たり前の時代。30勝投手も出現したが、1968年の南海・皆川睦雄の31勝以降生まれていない。
日本シリーズの記録を見ても、稲尾は58年のシリーズでは、7戦中6試合に登板しているし、シーズンでも、1961年には不世出の最多勝記録42勝を残している。
 58年の日本シリーズで3連勝の後4連敗した巨人は、翼59年には、南海・杉浦忠に4連投ストレート負けしている。
 60年の巨人は、大洋にリーグ優勝を許したものの、61年にリーグを制した。またもや南海と対戦し、初戦を落としている。つまり、巨人は西鉄と南海に日本シリーズ9連敗したのである。

 稲尾や杉浦は、別格であるが、投手だけを見ても自分がよくプロ野球を見ていた頃には、鉄人米田哲也 (阪急)や弱小チームで孤軍奮闘していた国鉄時代の金田正一と近鉄一筋の鈴木啓二、『針の穴をも通すコントロール』といわれた東京オリオンズと阪神時代の小山正明 、ルーキーの年にいきなり35勝した中日の権藤博など、そうそうたる顔ぶれが目立つ。

 野手もチームごとに侍が居た。野武士軍団といわれた西鉄の中心であった中西、豊田、高倉などは数々のエピソードを持っている。
 後楽園を本拠とする前の駒沢球場から、駒沢の暴れん坊と異名を取った東映では、山本八郎が、「ケンカはち」として鳴らしたし、投手としての選手生命は非常に短かったが、親会社東映の俳優となり、ギャングや悪党を専門に演じる俳優集団悪役商会の会長となった八名信夫など、個性派がおり、その流れは、張本一家につながった(大杉、白、大下、高橋博、尾崎、土橋などが有名)。暴れん坊軍団と言われたが、各人が大変な記録保持者である。
 その他、近鉄の猛牛軍団。大リーグから闘争心を持ち込み、弱小球団に喝を入れたスペンサーがいた阪急。野村克也、杉山光平、岡本伊三美、国貞泰汎、広瀬叔功などを率いて鶴岡親分と謳われた南海。奇人と言われた天才榎本喜八 、打撃の職人山内一弘 、葛城隆雄を擁した東京オリオンズ。

 昔から、「人気のセ・実力のパ」と呼ばれており、やはりハングリー精神旺盛なパリーグの方が、猛者連中が多かった。いつ頃からこじんまりしてしまったのか。やはり、勝つためのチームプレー重視、管理野球が叫ばれ出してからであろう。
 もっとも、世の中便利になり、車社会となれば歩かないのだから、現代人の体力も落ちているといえる。武士は、一日数里歩いたのだ。プロ野球選手で車に乗らない選手はいないであろう。
 また、ハングリー精神もなくなっているし、先輩も甘い。自分が体育会に居た頃でさえ、先輩たちにぶん殴られもした。そういった厳しさもないし、世の中天下太平、打てなくたって命まで取られるわけじゃなし。
 
 長期不景気と言われ続けても、全く食えない訳ではないのだ。今まで贅沢に慣れてしまっているから、悪い状況が続くと厳しく感じるのだ。
何もプロ野球の世界に限らず、世の中全体が「良い子ちゃん」にまとまり、言論の自由だとかが、まかり通っている。我々の頃は、口より先に手が出たものだ。今の若者はそれこそ、ぶん殴りあって本当に喧嘩したことがあるのだろうか?
 昔は、喧嘩した後に仲良くなったものだ。これ以上は、という限界を知っていた。今は、それがわからないから簡単にちょっとしたことで殺人が起きたり、イジメも陰湿になっている。自分の周りを見ても陰で人の悪口を言っているばかりで、本人の前では何も言えない。自分は、ズケズケ本人の前で言うが、そういう人間は浮いてしまう。上司に対してもおかしいと思ったことはハッキリ言うが、今の日本には、”無礼講”などないのだ。飲み会の時など、「今日は無礼講だ。何でも言いたい事を言え」などとホザクが、ちゃんと覚えているのである。バカな上司ほど、ゴマをする部下が可愛いし、酒の席だからなど決して許されないのだ。

 話が逸れたが、社会現象としても硬派は、少なくなっているのだから、プロ野球界においても本当の侍などいる訳がないのだ。何でも横文字化している世の中だから、サムライならいるかも知れない。
Mon 2009 | トラックバック(-) | comment(0)

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WBC総括

カテゴリー: 野球全般

侍ジャパン

侍ジャパン

 これまでの長島ジャパンやオリンピックの星野ジャパンとは違い、”侍ジャパン”としたことは大正解だったと思う。その名称で日本人であることのアイデンテティを産み、国民が一体化して応援したのだと思う。過去のWBCや昨年のオリンピックの時よりも、今年は盛り上がったと思う。

 しかし、過去の国内プロ野球を知っている自分としては、近代のプロ野球選手が”サムライ”と呼べるだろうか疑問である。『球史に残る強力打線』として記してきた様に昔のプロ野球選手には、猛者連中が多かったが、近年はいわゆる優等生が多く、こじんまりとまとまってしまっている。(これは野球に限らず、世の中全般に言えるとは思うが)

 そういった意味では、今回のメンバーは4番打者の寄せ集めではなく、3番バッタータイプが多かったことが勝因だと思う。今の日本の野球を象徴していると思った。
 国内野球が変わってきたのは、各チームに日本人の長距離4番打者がいなくなったことと、オリックス時代のイチローの出現だと思う。
 チーム構成も機動力と、投手を中心とした守り重視になっている。ピッチャーも先発完投型から中継ぎ押さえが重視されている。先発は5日から6日の間隔を空け、100球が目処になっている。
投手の分担制は、セーブ記録が着目されだした1974年、中日優勝時の星野仙一からだし、拍車をか
けたのが奇しくも1982年同じく中日優勝時の近藤貞夫監督だと思う。

 WBCに戻るが、選出された日本のピッチャーには好投手が多かった。大リーグ入りした日本選手でも実証されているように、バッターよりもピッチャーの成功例の方が圧倒的に多い。そういった意味では、国内チームのエース級は、世界でも堂々通用するようになっている。
 韓国戦での猛打爆発はあったが、やはり日本の勝つ野球は、投手の好投と守りしかないであろう。優勝を決めた韓国戦での内川のプレーは圧巻であった。彼は入団当時セカンドを守っていたが、怪我が多いこととチーム事情から、外野、ファーストを守らされた。去年、ファーストに固定されて、国内プロ野球史上右打者での最高打率で首位打者に輝いた。各解説者は、「外野飛球を
ああいった止め方が出来るのは内野経験者だからだ。」と言っていたが、止めた後のセカンド送球で見せた強肩とコントロールも実に見事だった。バッティングでも再三塁に出て貢献したし、影のMVPだと思う。

 自分が不思議に思ったのは、その内川を当初先発で原監督は起用しなかったことだ。内川だけでなく、実践的な選手である片岡川崎が外されていたのも以外だった。川崎は、怪我で本調子でなかったのかもしれないが、最後の方で多少打ったとは言え、当初全くブレーキだった岩村をセカンドに固定して使い続けたことは理解できなかった。もう一人、不振の福留を使い続けたのも納得できなかった。原は、日本人大リーガーとして大きな舞台を経験している2人に期待したのだろうが、長期戦ならいざ知らず、短期決戦は、調子の良し悪しを早目に見極め、起用していくことが定石であろう。これまでの国内でのプレー・オフや日本シリーズを見ても枚挙に暇がない。
 投手においては、小松、渡辺、涌井、藤川など、調子が悪いとかむこうののボールに合わないと見るや、早目に使わない断を下したのとは対照的であった。

 いずれにしろ、勝つには勝ったが、危なっかしいことこの上なかった。韓国の選手と比べて見ても、体格がまるで違うし、長打力ッでは明らかに劣っていた。福留、岩村、城島も日本では、長距離打者であったが、大リーグに言ってからは、長距離砲ではなくなっている。小笠原稲葉も3番タイプだし、日本の本来の長距離砲は、村田一人であった。そういった意味で3番打者を揃えた打線と言ったのであるが、それにしては繋がりに欠け、足を使った機動力もほとんど見られなかった。
 アメリカは、選手の人選からして、本気で戦っていないように見えたし、敗者復活戦あっての優勝は、事実である。地区を分けての対戦も世界選手権と言えるだろうか?
アジア・アメリカと一緒にして総当りのリーグ戦にした方が、真の勝者が分りやすい。

 そう言った捻くれた見方もあるが、日本人として素直に喜びたい。しかし、色々と教訓にはなったと思う。まず一番に使用ボールの違いだ。重いということで戸惑った投手が多かった。大体日本で使われているボールは軽くて飛びすぎる。だから誰でもホームランを打てるのだ。他の項でも書いたが、出過ぎるホームランは面白くない。
長距離打者が、減っている近代だからこそ、ホームランよりもスピード感溢れる野球と、プロの守りを見たいと願うのは、自分だけであろうか?
Mon 2009 | トラックバック(-) | comment(0)

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強力打線総括

カテゴリー: 野球全般

強力打線のネーミング

巨人史上最強打線

 球史に残る各チームの強力打線を述べてきたが、そのネーミングについて4タイプに分類される。

1.チーム名やチームカラーにちなんで命名されたもの
 ”中日・強竜打線”、”ダイエー・ダイホークス打線”、”オリックス・ブルーサンダー打線”、”広島・赤ヘル打線”、”近鉄・いてまえ打線”
 特定の時期や、特定の布陣を指しているのではなく、チームが勢いに乗り、打線が爆発した時に使われる名称である。阪神と近鉄の愛称となっている”猛虎打線”と”猛牛打線”は、猛打爆発した時 に使われる。いてまえも、近鉄の代名詞になっている。.
 小粒だが、チーム名から”ロッテ・マリンガン打線”もあった。また、愛称ということから、横浜の監督になった山下大輔の名前を取って”大ちゃんス打線”というのもあった。

2.世の中の流れ、時代の象徴として命名されたもの
 ”日本ハム・ビッグバン打線”、”巨人・ミレニアム打線”
 ビッグバンは、日本で1996年から2001年度にかけて行われた大規模な金融制度改革を指すが、元々宇宙創造時にあったといわれる大爆発になぞらえて名付けられた。
 ミレニアムは、千年紀にあたる2000年に巨人が大型トレードで他チームの主力を揃え、20世紀最後の覇者を目指したことから名付けられた。

3.その時の布陣による打線の特徴を表して命名されたもの
 ”南海・400フィート打線”、”西鉄・流線型打線”、”横浜・マシンガン打線”、”西武・ノーリミット打線”
 打線の組み方に明確な指針がある場合で、長距離砲が集まった年には、一発攻勢。あるいは、ホームランを狙わず、繋ぎの打線に徹するといった場合に名付けられる。
 それゆえ、その特徴自体が打線からなくなってしまえば、ネーミングも一緒に消えてしまう。
 その打線に似たタイプの打線が他チーム生まれた場合には、他球団でも同じくそう呼ばれる事がある。流線型打線は、1リーグ時代の巨人でも使われた。繋がるマシンガンに対し、単発的な打線は” ピストル打線”と呼ばれ、貧打の代名詞になっている。

4.打線の破壊力を表す固定した布陣に命名されたもの
 ”阪神・ダイナマイト打線”、”松竹・水爆打線”、”毎日・大毎・ロッテのミサイル打線”、”大洋メガトン打線” 
 長距離砲が、揃った年の固定メンバーで固定されるため、その選手が引退やトレードされると自動消滅する。しかし、また違う年に異なるメンバーで復活もする。その際は、第2次○○打線とか、ニュー○○打線と呼ばれるが、系統だったチームの伝統として残る。
 ダイナマイト〜ミサイル〜水爆と、その破壊力に比例して凄まじいといえると思う。松竹が短命で消滅したのは、非常に残念である。
 何しろ1リーグ分裂後の初代セリーグ覇者であり、同リーグには巨人も阪神もあったのに、両チームを制しての初代栄冠を手にしたのである。

 現在の12球団の中で、ヤクルトと楽天だけは、命名された強力打線がない。楽天は、歴史が浅いので致し方ないが、ヤクルトは、サンケイ、国鉄と遡っても見当たらない。

 わずかにヤクルトには、2003年、”オジンガン打線”と呼ばれた打線があった。
当時の日本人スタメン打者は、38歳の6番古田敦也を筆頭に、2番宮本慎也と5番鈴木健が33歳、7番真中満が32歳、トップの稲葉篤紀が31歳、一番若い8番城石憲之でも30歳であった。残り2人は外人で、3番T.ベッツも30歳、4番のA.ラミレスだけが唯一20代であったが、彼も29歳だった。

 当時若手の岩村明憲が怪我で戦線離脱し、やむなく組んだ打線の日本人選手全員が30代の「おじさん」選手であった。しかし、この年のチームの順位は巨人と並んで3位タイであり、チーム打率は首位の阪神に次ぐ.283という高打率をマークし、年齢を感じさせない働きを見せた。

 各時代において、数々の強力打線が命名されたが、先に述べた1950年の松竹・水爆打線と1985年阪神のニューダイナマイト打線が、特筆されると思う。クリーンアップトリオの3人が、ホームラン30本以上、100打点以上と、2つの記録をもって優勝したのは、この2チームしかない。この時のクリーンアップこそ、最強の布陣と考える。
 
 下位打線の意外な1発も面白いが、やはり野球はチームの総合力であり、各人がそれぞれの役割をこなすことにあると思う。V9巨人の項で述べたように、塁上の走者を返すのはONの仕事、他の選手はいかにして塁出るかという各人の役割が徹底していた。
 最近の大型補強で、各チームの4番打者を揃えても、必ずしも優勝をしていない。現に”史上最強打線”(これはネーミングではない)と謳われ、日本記録のチーム本塁打数259本を記録した2004年も、3位に沈んでいる。
やはり、巨人らしさを出したV9時代の方が、圧倒的に強かった。

 200発以上本塁打が出たチームでも、必ずしもそのチームが優勝した訳ではない。近鉄は、1980年と85年、2001年と3回も記録しているが、85年は優勝を逃している。日本初の1978年広島、2001年ダイエー、2004年巨人も同様で、200発打線で優勝したのは、1980年・2001年の近鉄と2000年の巨人しかないのである。

 やはり、爆発力も脅威であるが、V9時代の巨人や黄金時代の南海・西鉄・阪急・西武の圧倒的な強さが印象に残る。単年や2年連続ぐらいの優勝は、どのチームも経験しているが、数年に渡る連覇を記録しているのは、この5チームだけである。
 打線だけではなく、投手の陣容と内外野の守備も揃わないと中々優勝は出来ない。連覇を続けるには、チーム方針そのものが問われることになる。
Tue 2009 | トラックバック(-) | comment(0)

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歴史に残る強力打線 13

カテゴリー: 読売ジャイアンツ

巨人ミレニアム打線と史上最強打線

清原和博

 ミレニアム打線 

 ミレニアム打線とは、2000年の年がミレニアム(千年紀)であることにちなんで命名された、巨人の打線の名称である。命名者は、当時ジャイアンツの監督で、現在は同球団の終身名誉監督である長島茂雄
 
 2000年の巨人は、前年まで当時のワーストタイ記録である3シーズン連続V逸中で、優勝が絶対の命題とされていた。松井秀喜は前年まで主に3番打者で活躍し4番をシーズン通して務めたことが無かったが、契約更改記者会見にて2000年からは自分が4番を打ちたいと発表した。球団は打線のさらなるテコ入れのため、高橋由伸清原和博に加え、西武を自由契約になっていたドミンゴ・マルティネスの加入と、故障で出場機会を失っていた広澤克実石井浩郎を放出し、守備に難があるものの長打力に加え走力もある江藤智を広島からFAで獲得した。
 前年までV逸のA級戦犯扱いされていた清原は心身共に肉体改造を行いマルティネスとのレギュラー争いに備えた。なおこの年は、FAでダイエー、工藤公康、阪神を自由契約になったダレル・メイ、トレードでロッテから河本育之を獲得するなど投手陣の補強も積極的に行ったため、他球団ファンからの批判も起こった。

 これまでも巨人は、落合博満(元ロッテ〜中日)、広澤(元ヤクルト)、石井(元近鉄)など、移籍前のチームで4番を打ってきた選手ばかりを集めている。4番打者ばかり並べても、必ずしも優勝していない。大味な野球が多く、生え抜きの若手選手が育っていない。どういう野球を目指しているのか分らなかったし、他チームの寄せ集めで、伝統的チームカラーが見えなかった。
このことは、他チームファンの批判だけでなく、昔からの巨人ファンも快しとはしなかったと思う。

 しかし、豪華な布陣であることは否めない。シーズンに入ると打線は期待通りの破壊力を見せ、チーム本塁打は球団初の200本を超え(最終的には203本)、4年振りのリーグ優勝を9月24日に東京ドーム本拠地最終戦で決めた。
 対中日27回戦の9回裏、江藤の満塁本塁打(チーム200号)と二岡智宏のサヨナラホームランで、一気に5点を中日の守護神エディ・ギャラードから奪って派手に優勝を決めた。
 ダイエーとの日本シリーズでは、最初で最後となったON対決を制し、6年振りの日本一を達成した。松井は全試合4番打者で出場を果たして、本塁打王・打点王の2冠を獲得し、リーグMVPと日本シリーズMVPにも輝く活躍ぶりだった。巨人は20世紀最後の覇者となり、文字通り千年紀を飾るシーズンとなった。
 
   2000年ミレニアム打線

1 仁志敏久           セカンド    20本塁打
2 清水隆行           レフト      11本塁打
3 高橋由伸           ライト      27本塁打
4 松井秀喜           センター    42本塁打
5 D.マルティネス(前半)   ファースト   17本塁打   後半は清原和博  16本塁打
6 江藤智             サード     31本塁打
7 二岡智宏           ショート    10本塁打
8 村田真一           キャッチャー  7本塁打

 ファーストのみ、シーズン前半がマルティネス、後半清原が併用されたが、キャッチャーの村田真一以外、全員2桁ホーマーを放っている。キャッチャーも村田善則が先発で使われたこともあり、彼が3本塁打なので、投手を除く全ポジションで、2桁本塁打を記録したことになる。これは、1980年の近鉄以来の記録となる。(総ホームラン数は、近鉄の方が上)
 高橋も4番を打ったことがあり、松井、マルティネス、清原、江藤と5人の4番経験者が、スタメンに名前を並べている。

 代打陣には、「巨人・命」と言ってはばからなかった左の後藤孝志とチャンスに滅法強かった右の曲者元木大介がいた。後藤は、ファーストとレフト、元木は、サード・ショート・レフトで先発出場したこともあった。

 史上最強打線

 2003年の巨人は、前年限りでニューヨーク・ヤンキースに移籍した松井の穴埋めが出来なかったことや、投手陣の崩壊によって連覇を逃したため、監督の原辰徳が任期を1年残して辞任する事態に至った。
 苦戦を強いられた巨人は、近鉄を自由契約になっていたタフィ・ローズを獲得。またダイエーから、その年のオープン戦に膝に重度の故障を負った小久保裕紀が無償トレード扱いで移籍。
 この結果またもや、これまでに巨人に移籍していた清原、江藤、ロベルト・ペタジーニと合わせて、かつて他球団で4番を打った打者5人が巨人に集まることになった(清原以外の4人は本塁打王のタイトルを獲得している)。
 一方で生え抜きの選手にも高橋以外に、阿部慎之助、仁志敏久、斉藤宜之、清水隆行、二岡智宏と打力のある選手が多く、また本拠地の東京ドームは本塁打が出やすい構造のため、シーズン前から1980年に近鉄バファローズが作ったシーズンチーム本塁打記録(239本)の更新の期待が大きかった。

 結果的に、チーム本塁打は近鉄の記録を更新し(最終的には259本)、打点(719)、長打率(.483)、出塁率(.339)もセ・リーグ1位と、史上最強打線の名に違わぬ成績を残した。 しかし前年に続く投手陣崩壊が災いしチームの順位は3位に終わった。

   2003年史上最強打線  シーズン本塁打数日本記録を樹立

1 仁志敏久    セカンド  28本塁打
2 清水隆行    レフト    16本塁打
3 T.ローズ    センター  45本塁打
4 高橋由伸    ライト    30本塁打
5 R.ペタジーニ  ファースト 29本塁打
6 小久保裕紀   サード   41本塁打
7 阿部慎之助   キャッチャー 33本塁打
8 二岡智宏     ショート   9本塁打

 小久保はこの年右打者で41本塁打を放ち、球団初となる「右打者での40本塁打」を達成した(当時の12球団中12番目と、最も遅い達成)。それまでの最高は1968年の長島の39本塁打だった。
近鉄の239本を抜くとなるチーム本塁打数記録更新240本目を放ったのは、黒田哲史である。
 5番打者はペタジーニと清原の併用だった(ペタジーニの故障により開幕スタメンは清原)。後半戦は小久保が4番に座ったため高橋由が5番を打った。清原は40試合の出場にとどまったものの12本の本塁打を放っている。
 「チーム連続試合本塁打」の記録で33試合連続のセ・リーグ記録を達成し、日本記録の35試合連続(西武が1986年に記録)に迫った。また、「開幕からのチーム連続試合本塁打」については、開幕から33試合連続の日本記録を達成した。

 V9時代の巨人打線

 川上哲治率いる巨人は、日本一9連覇を果たし、それこそ史上最強のチームであった。ONを中心に、前後を高田繁、土井正三 、柴田勲、黒江透修などのうるさい脇役陣で固めたほぼ不動のオーダーであった。ONが偉大すぎたため、後を打つ5番打者が中々育たず、その頃も他チームから大物選手を引き抜いたが、高倉照幸(西鉄)も町田行彦(国鉄)や桑田武 (大洋)も短命で期待に応えられなかった。結局、V9(1965〜73年)前半は柴田、国松彰、後半は末次利光などが5番を勤めた。
 1969年、西鉄から移籍してきた柳田真宏は、V9の後半に代打で活躍していたが、1977年に大ブレイクして、長島監督をして「巨人史上最強の5番打者」と言わしめている。

    V9時代最も多かった打順

1 高田繁    レフト
2 土井正三   セカンド
3 王貞治    ファースト
4 長島茂雄   サード
5 柴田勲    センター
6 末次利光   ライト
7 森昌彦    キャッチャー
8 黒江透修   ショート

 巨人の日本一V9は、1965年パリーグの覇者南海を破ってから始まるが、最後の73年の相手も南海であった。その間、1970年のロッテを除き、残り5回はすべて西本・阪急であった。

 当時の巨人は繋ぎの打線で、各人が役割を心得、塁に出ることに全力を尽くした。上位・下位ともしつこく出塁し、ホームに返すのがONの役割であった。また、攻撃陣だけでなく、内外野の守備も鉄壁であった。投手も城之内邦雄、金田正一、中村稔、堀内恒夫、高橋一美など、常に絶対的エースを抱えていた。
セリーグ5球団も、パリーグの覇者も全く歯が立たなかった。

 とにかく、ONの働きは目覚しい。V9時代の記録だけでも、王は9年すべてホームラン王。打点も長島が3回で、王が6回。首位打者も長島が2回で王が4回。打撃3部門を二人でほぼ独占している。王は、V9最後の1973年に最初の三冠王を手にしている。(翌年も三冠王で、2年連続)
 ちなみに、首位打者部門だけは、3回ONの受賞が阻止された。打撃タイトルのON独占を阻止したのは、9年間で、1965年の江藤慎一(中日)、67年の中暁生(中日)、72年の若松勉(ヤクルト)の3人だけである。

 まさにV9時代は、ONの全盛期であり、巨人軍は二人に引っ張られての最強軍団だったと言えよう。
Mon 2009 | トラックバック(-) | comment(0)

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